「暁闇」全文紹介 「日蓮大聖人と最蓮房」全文紹介

- 第3章 法主相承にまつわる山崎正友関連資料とその解説 -


●山崎正友が企んできたこと

本章では、阿部日顕の血脈相承、すなわち法主≠フ座についたことに関して、山崎正友がこれまでどのように話してきたか、時代を追って考証していくことにする。その際、山崎自身の書いた文書や発言を中心に扱い、山崎をよく知る、正信会の伝法寺住職である浜中和道の『回想録』を援用していきたい。

まず、山崎と日蓮正宗との関係の概略を見ておこう。

日蓮正宗の中には血族、閨閥、法類など、さまざまな要因によって宗内に形成された派閥が存在する。ことわるまでもなく、日蓮大聖人の仏法とは無縁のものである。

ところが実際は、宗内においては明治の頃から派閥抗争が飽きることなく続けられてきた。それ以前も、顕著な史実がないだけで、同様の暗闘がおこなわれてきたであろうことは想像にかたくない。宗門は創価学会にくらべ、実に低レベルな次元でものを考え、動いていたといえる。

だが、衣の権威に執着し、宗政の権勢を掌中にすることに腐心する、堕落した坊主たちの妄動は、日蓮大聖人の仏法の本義とは、相容れないものがある。

それゆえ、仏意仏勅の団体である創価学会は、宗門のこうした瑣末な動向を意に介さず、ただ日蓮大聖人の仏法に説かれた大慈大悲を現実社会に具現するため、池田大作名誉会長を中心にし、ひたむきな弘教に取り組んでいた。

小さなタコツボをタコが争うような狂騒に気を取られていたならば、創価学会は本源的なエネルギーを削がれてしまっただろう。ひいては、仏意仏勅という何ものにもかえがたい、創価学会本来の存在意義を失うことにすらなりかねなかった。池田名誉会長の民衆救済のダイナミックな指導性のなかにおいてこそ、創価学会は本義をまっとうできたと総括できる。

それに対して、宗門はといえば、山崎が見抜いていたように、低次元かつ狭隘な価値観のなかで右往左往していた。これは、まぎれもない事実である。

山崎は昭和五十年当時、私に、「坊さんは年増の芸者だ。疑い深くて嫉妬深い」と話したことがある。そして、坊主≠ニいう職業から発する猜疑心と嫉妬心、そして在家に対するコンプレックスから起こる、反作用としての差別意識を巧みに利用しながら、宗門中枢に対する裏工作を続けてきた。山崎はそれにより、宗門の宗教的権威をもって創価学会を間接支配し、みずからの欲望を満たそうと企てていたのである。

この山崎の裏工作は、細井日達管長の時代にとどまらず、阿部日顕にも及ぶ。山崎は約三十年間にわたり、日蓮正宗のトップを籠絡し、それを意のままに操り、その超絶した宗教的権威をもって創価学会を利用、支配しようとした。

しかし、それが意のままにならないと、今度は同様な手法で創価学会を破壊しにかかる。そうした野望の達成にあたり、山崎は出家を煽動しマスコミを利用し、訴訟を提起することなどを常套手段としてきた。

歴史的にその流れを見てみよう。昭和五十二年頃から山崎は池田大作創価学会会長(当時)の悪口を細井管長の耳に入れ、細井管長の心に猜疑心が芽生えるように仕向けた。この山崎の工作は成功する。細井管長が亡くなる昭和五十四年当時、日蓮正宗内で正信覚醒運動≠続ける管長子飼いの出家たちに対しても、細井管長はそれが創価学会にからむ問題であると、みずからの判断を示さず、
「それは山崎先生に聞いてくれ」

というまでになる。

ところが、昭和五十四年七月二十二日、山崎が掌中の玉≠ニ呼んでいた細井管長が突然死去した。次に法主となったのは阿部日顕である。阿部日顕が日蓮正宗法主≠フ座にすわってからは、その籠絡を試みる。手口は細井管長のときと同様、池田名誉会長の「本心」を捏造し、法主≠フ猜疑心を醸成することにあった。

しかし、その山崎の企みは同年九月、阿部日顕が山崎を、
「あんたは大ウソつきだ。あんたを絶対、信用しない」

と面罵したことにより頓挫。それまで山崎は、阿部日顕に対し、表面的には頭を低くし恭順を装っていたが、その後は阿部日顕をニセ法主呼ばわりする。さらに、前法主・細井管長子飼いの妙観会を中心とした正信覚醒運動≠煽りながら、マスコミなども使い阿部日顕もろとも創価学会を攻撃しはじめた。山崎はこの頃より、みずから見聞きした阿部日顕の相承にまつわる疑惑をマスコミなどで喧伝する。正信覚醒運動≠ニいう反創価学会運動を展開していた活動家≠自称する出家らは、山崎が『週刊文春』などに書いた相承疑惑に触発され、一段と過激な運動を展開する。当時の山崎は、あたかも正信会の軍師気取りであった。


●山崎と阿部日顕

ところが、昭和五十五年から同五十七年にかけて、阿部日顕の強権により正信会が擯斥処分(破門)にされたこと、山崎自身も昭和五十六年二月、創価学会に対する恐喝容疑で逮捕され、東京地裁で懲役三年の有罪判決を受けたことにより、両者の関係は微妙に齟齬をきたしはじめる。

山崎にとって、破門され宗外に追放された正信会は、宗門攻撃をおこなう基盤としては脆弱なものとしか映らなかった。他方、正信会の側も、刑事事件で懲役三年の実刑判決を受けた山崎が、自分たちの運動に密接に関わることに少なからぬ躊躇を感じはじめる。その結果、昭和五十八年頃より、両者の間にすきま風が吹きはじめたようだ。正信会は山崎の意のままに動かなくなった。山崎も正信会を見限ったが、一部の者たちとのパイプは残した。

山崎は戦略を変え、阿部日顕を中心とする日蓮正宗中枢に、創価学会についての操作情報を入れるなどの裏工作をし、同宗の宗教的権威をもって創価学会を破壊しようと再び画策する。この山崎の裏工作は奏功し、日蓮正宗中枢は「C作戦」(創価学会分離作戦)という奸計を謀議し、実行するに至った。平成二年のことである。

日蓮正宗は破仏法者・山崎正友に操られてしまったのである。このような事態を招いた原因は、日蓮正宗の出家たちが日蓮大聖人の仏法と乖離した意識、行動原理を有していたことにある。

阿部日顕は「C作戦」発動直後の平成三年一月五日、当時の海外部書記・福田毅道を通し、山崎の部下であった梅沢十四夫に伝言をする。伝言の内容は、阿部日顕が登座直後、山崎に対し「ウソつき」と面罵したことについて、
「あの時はウソつきと言って悪かった。かんべんして下さい」

と、謝罪するものであった。

阿部日顕は「C作戦」という奇襲攻撃を創価学会に仕掛け、「二十万人の檀徒作り」を最低限の目標とした。そこで、平成二年十二月二十七日に池田名誉会長を日蓮正宗総講頭より実質的に罷免した。阿部日顕ら日蓮正宗中枢は、その衝撃に乗じ創価学会の組織に対する切り崩しを謀ったのである。

しかしながら、創価学会側の対応はあまりにすばやかった。しかも創価学会側は、鉄桶の団結力をもって、阿部日顕ら日蓮正宗中枢の陰謀に対処したのである。阿部日顕は怯え、焦り、うろたえた。

そこで、阿部日顕は山崎に対し、過去に面罵したことを謝り、創価学会攻撃の軍師として与力してくれるよう頼む。さらに阿部日顕は、相承についても認めてくれるよう依頼、山崎はそれを承諾した。

その後間もなく、最高裁において恐喝による懲役三年の刑が確定し、平成三年二月二十五日、山崎は収監された。

平成五年四月二十七日、仮出獄した山崎は、日顕の相承の正統性≠証明するための妖言を放ちはじめる。山崎は阿部日顕の相承≠ノついて、いとも簡単に前言をひるがえしたのである。

このような状況の変化を冷静に踏んまえ、日顕の相承≠ノ関わる山崎の言説を見ていく必要がある。

それでは、以下、年次を追って事態の推移を見ていこう。


●細井日達管長の急死

【昭和五十四年】

七月二十二日午前五時五分、日蓮正宗の第六十六世法主・細井日達管長が急死した。同日午前十一時十分より重役会のメンバーである総監・阿部信雄、重役・椎名法英、そしてメンバーではないが最大派閥「法器会」を束ねる早瀬日慈の三名で話し合いがおこなわれた。その席で阿部信雄が、「前年四月十五日に相承を受けていた」と述べ、次期法主であることを自称した。後年、早瀬日慈は、創価学会の豊島区幹部に対し、「自分が我慢したから、阿部さんが法主になった」と話している。

細井管長急死の状況については、当時、山崎正友と緊密な関係にあった大分県の伝法寺住職・浜中和道が詳細に回想している。なお浜中は、昭和五十三年一月十九日、「活動家」を称する僧約百名が細井管長に「目通り」した際に読み上げられた山崎作成の謀略文書「ある信者からの手紙」を、山崎に頼まれて細井管長に届けるなど、山崎の細井管長籠絡において重要な役割を果たした人物である。

その後、浜中は山崎の謀略に気づき、創価学会のみならず宗門人さえも知りえなかった史実を後世に残すため、平成十二年十月に『浜中和道回想録』を著した。この『回想録』は一級の資料といえる。

次に紹介する【資料一】は、同『回想録』であるが、文中に登場する「猊下」は、細井日達第六十六世法主、日蓮正宗管長。「菅野」は同管長の娘婿で、当時、海外部長の大宣寺住職・菅野慈雲(現・日龍)。「光久」は「御仲居」という職にあり、当時、細井管長の側近ナンバーワンであった大石寺塔中妙泉坊住職・光久諦顕(現・日康。東京・妙縁寺住職)である。

【資料一】『浜中和道回想録』

二十一日の夜遅くなって、山崎氏から電話があった。
「今、猊下のお見舞から帰ったよ。いやあ、一時はどうなるかと思ったけど、もう大丈夫だよ。猊下が菅野さんと光久さんにも、『もう休むから、帰れ』とおっしゃったから、みんなで一緒にお部屋から引き上げたんだよ。あとは猊下の奥さんが泊まられることになったよ」

私はそれを聞いて胸を撫で下ろした。山崎氏は受話器の向こうでひと呼吸おくと、話を続けた。
「それでね、猊下が奥番に、『明朝、どんなことがあっても本山に帰るから、大奥の対面所に布団を敷いておけ』と言われて、菅野さんと光久さんの二人に、『その時、必ず、来い』と言っておられたけど。和道さん、どう思う?」

山崎氏は緊張した声で言った。
「それは間違いなく御前さんは、血脈相承をなされるつもりだよ」

私は自分でも声が上ずっているのを感じた。山崎氏も慎重な声で、
「うん、僕もそう思うんだよ」

と答えた。私は、
「御前さんが対面所に来いと言ったのは、旦那と御仲居さんの二人だけなの? 他に誰か呼ぶように奥番とか御仲居さんに命令しなかった?」

と尋ねた。山崎氏はきっぱりとした口調で、
「うん、二人だけだよ」

と言った。
「それじゃ、御前さんは御仲居さんか旦那さんのどっちかに相承するつもりだよ。そして一人を立ち会いにするつもりだよ」

山崎氏は、
「二人の中でどっちに猊下はあとを譲る気かな?まあ、明日になればわかるよ。ともかく僕も疲れたから、ひと眠りするよ。そして明日の朝、また本山に行くよ」

と言うと電話を切った。

私も高ぶる胸を押さえて布団にもぐり込んだが、目が冴えてなかなか寝つけなかった。

真っ暗な中で鳴り響く電話の音で目が醒めた。時計を見ると、もう午前二時を回っていた。電話は山崎氏からであった。山崎氏の声は緊迫していた。
「今、猊下の奥さんから電話があって、猊下の容態が急変したらしい。『至急、日野原先生に連絡を取ってくれ』って。日野原さんも『病院にすぐ行く』って言っていたけど、どうも難しいみたいだよ。僕もすぐ今から病院に行くよ。光久さんはもう病院に向かったらしいけど、大宣寺には連絡が取れないんだって」

私はいっぺんで目が醒めてしまった。しかし、九州にいる私は、動きようもない。私は起き出して茶の間に移動した。茶の間ではたまたま伝法寺に遊びに来ていた私の両親と、両親の友人で今年の五月に亡くなった長万部(筆者註 北海道)・説道寺住職の大藪守道師の奥さんが寝ていたが、三人とも何事か≠ニ目を覚ましていた。

私が、
「どうも、御前さんのお身体の調子が悪いみたいなんだ」

と言うと、みんな驚いて起き出した。私は病身である父を気遣って、
「いいから、みんなは休んでいてよ」

と言ったが、私が茶の間の電気を点け、電話の前に陣取っていては、とても寝れたものではなかったであろう。それでも三人は布団をかぶり眠ろうとしていた。

茶の間の時計の音と自分の心臓の鼓動とが同時に響いているようであった。私の両親と大藪さんの奥さんは布団から半身を出して眠るのを諦めていた。三人とも心配そうな表情で身動きしないでいた。みんなそれぞれ、
「猊下様は大丈夫なの?」

と尋ねたが、無論、私に答えられるはずはなかった。

電話が鳴った。飛びつくように受話器を取ると山崎氏からであった。
「和道さん……」

と言う悄然とした声の調子に、私は日達上人の身が朽ちられたことを感じた。
「猊下は亡くなられたよ。間に合わなかったよ。医師が心臓マッサージとかいろいろしたけど、ダメだったよ」

私は、
「あとのことはどうなったの?」

と尋ねずにはいられなかった。山崎氏は、
「わからないよ。光久さんもがっくりしてるよ。僕もどうしたらいいかわからないよ。今から御遺体を本山に帰すために、みんなバタバタしてるよ。とりあえず僕も東京に帰るよ」

と言って電話を切った。


これを読む限り、この時点で山崎は細井管長より相承を受けた者の名前を知らなかったことが判明する。また光久、菅野の二名を翌朝、大奥に呼んでいる状況から、山崎と浜中の間で話されたように、二十二日朝、細井管長が菅野、光久のいずれかに相承しようとしていたことも明らかとなる。


●「日号」を自分でつけ直した阿部

浜中は急きょ、大分県竹田市より日蓮正宗総本山大石寺に向かった。大石寺内事部で浜中が見聞したことはまたしても、阿部日顕に細井管長から相承がなされなかった事実を示すものであった。

浜中の以下の回想は、細井管長の逝去の翌日、七月二十三日の状況が描写されている。

【資料二】『浜中和道回想録』

私は本山在勤中、所化頭としていつも内事部に詰めていたので、在勤が終わって末寺の執事となり、そして伝法寺の住職となってからも、本山に行けば必ず内事部に顔を出していた。勿論、そこの責任者が光久師だったからということもあったが、いわば内事部は、私にとっての昔の職場≠フような感覚でもあった。

内事部の各役僧もすべて気安い間柄であった。私が内事部に顔を出した時、電話の応対をしていた役僧の一人が、
「おーい、『聖教新聞』から、新しい猊下の日号を聞いてきたけど、阿部猊下は、なんとおっしゃるんだ?」

と、大声でみんなに聞いた。

阿部師の僧侶の名である道号≠ヘ「信雄」であるが、法主に就任すれば、当然、日号を名乗るのが宗門の伝統である。日達上人も総監の時は「精道」という道号で呼ばれていたが、法主の座に就かれると同時に「日達」と日号を名乗られた。日号は袈裟免許と同時に頂戴することはできるが、日蓮正宗の規約では、法主か能化でなければ名乗ることはできないことになっている。

昨夜の仮通夜の席で、当然、阿部師が次期法主に名乗り出ると同時に、椎名重役より「第六十七世法主は、阿部○○上人猊下」と発表があってもよさそうなものなのだが、その日号の発表がなかったのである。

聖教新聞社からの問い合わせに、本山の中枢である内事部の役僧がそれを知らないこと自体が異常なのである。私がそれを不審に思って耳をそばだてていると、他の一人が、
「『日慈』だ。『日慈』だそうだ」

と答えた。すると一人が、
「『日慈』?それじゃあ、観妙院さんと一緒だな」

と言った。「観妙院」というのは、前の総監・早瀬日慈師のことである。

するともう一人が、
「ちょっと待ってろ。もう一度、確認するから」

と言った。

しばらくして、
「『日顕』だ。『日』に『顕す』と書いて、『日顕』だ」

と役僧の一人が大声で叫んだ。
「今、連絡があって、御自身で『日顕』とおつけになられた」

内事部は、てんやわんやであった。

日号を僧侶に授けるのは、法主の権能である。昨年の四月に日達上人から相承があったならば、その時点ですでに「日慈」と名乗っている早瀬師がおられたのであるから、なぜ阿部師は日達上人より「日慈」以外の日号をもらわなかったのであろうか。また日達上人もそれをご存知のはずであるから、法主の権限で早瀬師に別の日号を授与すればいいことなのである。それが今朝になって、本人が自分の日号を改名して、内事部にそれが届くなどとは、私のそれまでの僧侶の感覚として不可解な出来事であった。

日号こそ、法主として大事中の大事なのである。不敬とは思ったが、阿部師が日達上人より本当に昨年、相承を受けた事実があったのか、私の頭に疑念が湧いてくるのを押さえることができなかった。

役僧が聖教新聞社からの問い合わせに、電話で答えている声を私は白けた思いで聞いていた。そして、内事部を立ち去った。その時、私のそばにいた二、三人の僧侶が互いに肩を突ついて、
「おい、おい」

と目配せしているのが目についた。疑念を持ったのは私だけではなかったらしい。


日号は、出家した者が、白衣小僧、衣小僧を経て法主から袈裟免許を与えられたときに授けられるものである。細井管長が年分得度制(小学五年生から六年生になるときに得度、のち中学入学時に改正)を整備してからは、高校生になるときに袈裟免許をもらった。

袈裟免許は毎年三月三十一日の丑寅勤行のとき、二座の長行を終えたところで与えられた。袈裟は、形だけではあるが、法主が一度肩にかけ、所化たちに与えられる。法主から授かった袈裟の裏には、法主の直筆で中央に「南無妙法蓮華経」と書かれ、右に日号の与えられた期日が書かれ「不染世間法」と認められている。左には「如蓮華在水」と書かれており、そのさらに左には師僧から与えられた道号と法主から授けられた日号が書かれている。

この袈裟免許のときに与えられた日号を名乗れるのは、能化か法主になったときだけである。日号を勝手に名乗ったり、人に与えることは固く禁じられている。日号を勝手に授けた場合、日蓮正宗の宗規は擯斥(破門)に処することを明記している。

出家した者たちは、法主から授けられた日号を胸に秘め、それを名乗る日の来ることを生涯の願いとする。


●「阿部が相承を受けたなんて絶対、嘘」

さて、先に紹介した『回想録』によれば、本山における仮通夜の二十二日、浜中は、細井管長が布団を敷くように命じ大奥に菅野、光久両名を呼んでいながら、相承するために大奥へ戻れなかったこと、あわせて「日顕」という日号についてのひと騒ぎを見たことによって、阿部日顕に相承がない≠ニの強い「疑念」を抱いたのであった。

浜中は大石寺の帰途、東京都調布市にある行法寺をたずねた。

【資料三】『浜中和道回想録』

二十九日夕刻、私は行法寺の近藤済道師を訪ねた。そこには京都・修福寺の住職から千葉柏市の源遠寺住職に異動した同期の川村旺道師が来ていた。

三人で食事をした後、みんなで雑談していると、ふと思い出したように川村師が、
「おい、聞いた? 御前さんのお通夜の時のこと」(筆者註 会話のため「お通夜」となっているが正確には二十二日の仮通夜のこと)

と切り出した。私が怪訝に思い、
「なんのことだ」

と尋ねると、
「お通夜が終わって、俺たちが理境坊で着替えているとさ、秋山さんが俺達の所に来てな」

川村師や近藤師は、私と同じく学生時代に一緒に大宣寺に在勤していた小川只道師が住職を務める理境坊を本山での宿舎としていた。日達上人の仮通夜の日、その理境坊に、前住職である落合慈仁師の時から宿坊にしていた大牟田・法恵寺の秋山慈泉師や埼玉・妙本寺の田中教導師も同宿していたとのことであった。
「いきなり俺たちに『君たち、騙されるな!阿部が相承を受けたなんて絶対、嘘だぞ。君たちは若いから知らないけど、そんなことは絶対ないからな』って大声で言うんだよ」

私は驚いて、
「本当かよ」

と言い、隣の近藤師の顔を見た。

近藤師は、
「本当だよ。俺も驚いたよ」

と、うなずきながら言った。

私は川村師につづきを促した。
「それだけだよ。そんなこと俺らに言われたって、知ってっこないじゃんな。『僕もそう思います』って言うわけにもいかないし、それかといって、『いいえ、総監さんは相承、受けてます』っていう証拠も無いしさ。秋山さんもそう思うなら、お通夜の時でも手を挙げて、『あんた受けてないだろう』と直接、本人に言やいいのに。俺らにあとになって『騙されるな』ってったって、俺ら、知らないよ。なあ」

私も、
「そりゃ、そうだ」

と相槌を打った。それを聞いていた近藤師が、
「それもあるけどな。あのあと、俺と暹が国立の旦那と会った時、旦那が言っていたんだけどよ」
「暹」とは、年分得度二期生で菅野慈雲師の甥でもある松本格道師のことである。松本師は当時、大宣寺の高尾にある墓苑の責任者を務めていた。
「御前さんが死んだあと、すぐ大奥で早瀬さんと阿部さんに部屋の中に引っ張り込まれて、『日達上人から何も聞いてないな。何も聞いてないな』って念を押されたんだって」

と言った。私が話を促すと、近藤師は、
「それで旦那が、『はい、なにも聞いていません』って答えたら、その日の晩、阿部さんの『実は……』って話だろう。それで総監に相承があったと俺らに信じろってのが無理な話だよ。なあ」

私は二人の話を驚愕の思いで聞いた。
「それじゃー、旦那が『実は私が受けました』と、その時、阿部さんたちに言えば、旦那で決まりだったんか」

私は独り言のように言った。
「そりゃ、そうだろうな。でも旦那さんは嘘のつけない人だからな」

と川村師は応じた。

私はその時、
「これはある人から聞いたんだけどな。御前さんが亡くなる前の日に、『大奥に明朝、布団を敷いとけ』って奥番に言って、『御仲居と大宣寺はその時、来い』って言ったらしいんだよな。その時に阿部総監は呼ばれてないんだよな」

と二人に言った。すると近藤師が、
「そのある人ってのは、山崎だろう」

と、ズバリ言った。私が驚いて、
「お前、知ってんのか?」

と聞くと、
「それぐらい知ってるさ。旦那から聞いたよ」

と言った。川村師は初耳のようであった。

私が、
「でもあれだろう。こういう話、まだ知っている奴、少ないんだろう?」

と言うと、近藤師が、
「バカ。こんな話、みんな知ってるよ。だって理境坊で秋山さんの話を聞いたの俺らばかりじゃないし、旦那の話、聞いたんだって俺らばかりじゃないしよ。宗門の情報網がどれだけ素早いかは、お前だって知っているだろう」

と言った。私も川村師も、
「そりゃ、そうだ」

と答えた。

おそらく今ごろ、阿部師の日達上人からの相承の疑惑が、全宗門に広がっているであろうことは、私にも想像がついた。
「でも、これは俺たちだけの話にしておこうぜ。御前さんの本葬も済まないうちに、弟子がこんな話をするなんて不謹慎だからな」

近藤師の結論は説得力を持っていた。

夜遅くなって、山崎氏に行法寺から電話をすると、
「やあ、すみません。今日は本山に行って、新しい猊下にお目通りしたあと、菅野さんと今まで一緒だったもので連絡が取れなくて。和道さん、それじゃ明日、帰りでも寄って下さい」

ということであった。

翌七月三十日、本山の六壺に安置された日達上人の御遺骨に読経唱題を済ませた私は、近藤師らと別れ、約束どおり山崎氏の事務所に立ち寄った。日達上人が逝去された後、初めて二人だけでゆっくり会うと思うと、私にはなにか、山崎氏がなつかしい人に感じられた。

山崎氏は私と向き合うとすぐに、
「どう、宗内の様子は?」

と尋ねた。私は、
「まだ、御前さんが亡くなられたばかりだから、みんな戸惑っているみたいだよ」

とだけ答えた。近藤師らとの話は山崎氏にはしないことに決めていた。山崎氏から変な形で学会に伝わることを恐れたからである。

山崎氏は、
「そうだろうね。まだ阿部さんの出方がわからないもんね」

と言った。
「ところで、昨日は日顕上人にお目通りしてどうだったの?」

と私は尋ねた。
「いや、昨日は単なる挨拶さ。そのうちに徐々にやるよ」

と、山崎氏は言った。「徐々にやるよ」という意味が、私にはなんとなくわかるような気がした。しかし、敢えて意地悪く、
「『徐々に』って?」

と尋ねてみた。山崎氏は、
「じっくりとこちらの側に猊下をつけるってことだよ。今まであの人は学会寄りと見られて、若い坊さんたちの反感を買っていたけど、腹の中はそうじゃないと僕は前から思っていたんだよ。だから、和道さんの知らないとこで、僕はいろいろ工作していたんだよ」

と恬淡と答えた。私は鼻白む思いであった。


この後、山崎は細井管長と同様、阿部日顕を自家薬籠中のものにしようと画策する。山崎が日顕に吹き込もうとしていた内容は、「申し上げるべきこと(一)」「申し上げるべきこと(二)」の山崎自筆文書二通によって確認される。

なお、この文書はあまりにも粗雑な文字で書かれており、一部判読不能であるし、記述された文体が、ほかに物事を直接伝えようとしたものとは考えにくいことから、おそらくは山崎が日顕に「目通り」する際の「口上」の下書きと思われる。


●山崎が日顕に具申した攪乱工作

なお、これらの文書は昭和五十四年八月後半から九月の初め頃に書かれたようだ。この頃、山崎正友は創価学会顧問弁護士であり、これらの密書の存在は、山崎が明らかに弁護士法に違反する行為をおこなっていたことを示す。山崎は顧問弁護士として創価学会から報酬を受け取りながら、顧問先に不利益をもたらす違法行為をおこなっていたのである。

山崎はこの二通の文書において、創価学会の会長職を勇退した池田名誉会長が、実質的に創価学会の指揮を取っていることを示し、創価学会内に親池田派≠ニ、「良識派」と呼ばれる反池田派≠ェ存在するかのように述べている。このことにより山崎は、創価学会が一枚岩ではなく、本山の出方次第でどうにでも分断できるとの可能性を示したのである。同時に学会の「特別財務」を問題視し、「社会問題になる」としている。

だが、これらはまったくの虚偽。創価学会は池田名誉会長を中心に団結しており、宗教法人創価学会が特別財務という寄付行為を受けることも、まったく合法的なことである。

しかし、重要なのは、山崎が「内部告発」を装い、創価学会を攪乱しようとしていたことである。山崎はさらに日顕に対し、次に紹介する【資料五】のように「どちらにも組(ママ)せず、中立の立場がよい」(「申し上げるべきこと(二)」の「五」)と進言し、「このまゝいくと、一年半で、檀徒は十五万〜二十万になる。そこで、本当に学会がコントロールできる力をGがもたれる。そこで、眞の解決をされるべきである」(「申し上げるべきこと(二)」の「六」)と強調しているが、これはきわめて重要な事柄である。

また山崎は、日顕に檀徒作りを勧めると同時に、自分の利権をちゃっかり確保しようとしていた。山崎は「申し上げるべきこと(二)」の最終項である「十八」において、「墓園は、戦略的な二〇三高地であり、ぜひすゝめさせていただきたい」と述べている。

山崎が創価学会と宗門とを離間させようとする最終目的は、まさにそこにあったといえる。以下、山崎の書いた文章を紹介する(筆者註 文中の「G」「G」は猊下のこと。●は判読不能)。

【資料四】「申し上げるべきこと(一)」

一、池田前会長の言動。

  八月十三日頃の言動。内部告発書のとおり

二、八月三十一日、支部長会に出席。(選挙への出陣の会合)今回の選挙は池田―竹入ラインで直接指揮。

三、海外首脳への話。

  中心はおれだ。インターナショナルは、日本より上だ。

 (●弁護士に対する加藤副理事長の話)

 北条さんは、池田先生のいうことをそのとおり実行するだけ。板ばさみになっているときがある。一月に、池田先生がアメリカにきてまきかえす。

四、聖教の一面、二面を毎日検閲

五、成田尊師より、「阿部猊下は、二重人格で陰険だから気をつけた方がよい」との進言があったという。(時期不明、側近情報)

六、選挙にかったら、すべてが解決する。まきかえすと云う。勇退仇打(ママ)選挙≠ニよんでいる。


【資料五】「申し上げるべきこと(二)」

一、池田前会長の裏面での監視やしめつけ、仇打ち(ママ)が陰険にすゝんでいるため、絶望感と反撥が、良識派の中に出てきた。もう、良心に照らしてがまんできないとの心情が高まり、折をみて、内部告発するべく準備中。そのときには、私の情報はすべて裏付けされる。(来年五月頃までに)
 二、刑事事件になる。
 三、特財について、会員、元会員の間に民事、刑事の訴訟が準備中。社会問題になる。宗教法人の問題になる。(近日中)
 今は、総理や大統領でも悪事は制裁を免れられない。池田前会長はじめ、首脳の犯した罪は、消えない。重大な資料はすでに出ている。
 下手にお山がかばうと、まきぞえをくう。法にはずれたことを、いかなる人もかばえない。M蓮とは違う。まじめな人が、本質的な腐敗をあばく。ウオターゲート(ママ)になる。一年位なりゆきを見ていただきたい。正々堂々とやるといっている。
 四、学会に対し、自分の損害を請求するのは国民としての権利であり、宗門といえど干渉できない。(教義論争とちがう)
 五、Gとしては、どちらにも組(ママ)せず、中立の立場がよい。
 六、このまゝいくと、一年半で、檀徒は十五万〜二十万になる。そこで、本当に学会がコントロールできる力をGがもたれる。そこで、眞の解決をされるべきである。
 七、手元にある資料の一部をお見せする。
 八、学会の中で、副会長クラスも必ず動く。
 九、宗門として、出版を確立させるべきである。御書等、主なもの。
   聖教に対抗出来る出し方を。(大手出版社をつかい、新聞でも広告する等)任務として、学会をとおさずとも教義がわかるようにする。
 十、寺院、墓地等を充実させる。
  何でも依存≠ヘ、宗門を卑屈にする。経済的支配をゆだねたとき、学会が何をしたか。忘れてはならない。
 十一、Gがバランスをとることが、若手や檀徒を暴走させない方法である。
 十二、海外は、海外部長の菅野にまかせていたゞきたい。海外部長は、首をかけてやられる。
    韓国は完全に宗門の下に入れ、寺をつくる。
    海外の謗法化が国内に影響したことを忘れてはならない。
    インターナショナルは、学会から書面で資料が出てから、検討されたい。
 十三、応師閥に気を配っていただきたい。
 十四、寺につきたいという人を追いかえすことはないようにしていただきたい。
 十五、Gの身辺や言動を学会に伝える人がいるので注意して下さい。
 十六、西片は見はりが三軒あります。
 十七、(あえて、学会批判をなさることはないが)
    学会に利用される言動はさけていただきたい。逆に活動家も利用しないよう注意する。
 十八、墓園は、戦略的な二〇三高地であり、ぜひすゝめさせていただきたい。


「申し上げるべきこと(一)」で、山崎は池田大作創価学会名誉会長に対する不信感を阿部日顕に植えつけようとしている。つづく「申し上げるべきこと(二)」では、創価学会内部から「告発」をする準備が進んでいると述べている。このとき山崎は、創価学会の顧問弁護士でありながら、翌昭和五十五年五月頃までに、「刑事事件」になるような「告発」がなされ、それを自分の「情報」で裏づけると述べているのである。

当然のことながら、そのような刑事告発がされることはなかった。

だが山崎は、まるで創価学会首脳が刑事事件を犯したかのように言い、その罪は「消えない」とし、「重大な資料はすでに出ている」とまで述べている。そこで山崎は、阿部日顕に「一年位なりゆきを見ていただきたい」としている。


●一度は袂を分った山崎と日顕

このように山崎は、日蓮正宗が「まきぞえ」をくわないようにと、親切めかした恫喝を加え、阿部日顕に「中立の立場」をとるよう述べる。そして「中立の立場」を守れば「一年半で、檀徒は十五〜二十万になる」と、馬の目の前にニンジンをぶら下げるようなことを言うのである。

このような戦略的なことを述べながら、「寺院、墓地等を充実させる」と言っているのだが、この建設にかかわる利権こそが山崎の狙いである。それはこの「申し上げるべきこと(二)」の「十八」に、「墓園は、戦略的な二〇三高地であり、ぜひすゝめさせていただきたい」とあからさまに書かれていることからも明らかである。この利権こそが、山崎が日顕の懐に飛び込む究極の目的であった。山崎に信仰心はない。山崎が宗教にかかわるとき、そこに見ているのはただみずからの欲得だけである。

山崎は自分が寺院や墓園の建設などに関わり利権を得ようとしているだけであった。みずからの利権のためであれば、善良な人々が信仰上、どのような混乱を来たし悩んだとしても、意に介さないのである。

だが、創価学会側の阿部日顕に対する事情説明により、当時の阿部日顕は山崎正友の策略こそが、自分たちにとっての脅威であると理解する。そのことにより、山崎は阿部日顕から宗外追放を宣告されたのである。

阿部日顕は、山崎を宗外追放にした昭和五十四年九月のことを、次のように述べている。

【資料六】昭和六十年三月三十日、「非教師指導会」(『大日蓮』昭和六十年五月号)

私は登座以来、特に昭和五十四年の九月に、山崎正友が実にインチキ極まる悪辣な策略家であるということを見抜いて「あなたは大嘘つきである」ということをはっきりと言いました。

以上の文に明らかなように、阿部日顕はこの当時、山崎を「インチキ極まる悪辣な策略家」と判断していた。そのうえで山崎に面と向かい、「あなたは大嘘つきである」と述べたのである。瞬間湯沸かし器≠フ阿部日顕と、怒鳴られた山崎の面相を想像すると面白い。だが、阿部日顕が山崎に対し「策略家」という正当な判断をしていたのかとなると、その後の阿部日顕の行動からして、単純には首肯しがたいものがある。言うならば阿部日顕は、山崎を追放することにより創価学会の信頼を取りつけ、ヌエ的に自己保身を図ったと思われる。

このことは阿部日顕のその後の宗政のあり方を見ると、さらに明確に理解できる。昭和五十五年から五十七年にかけて阿部日顕は、細井管長子飼いの「妙観会」が中心となる正信覚醒運動≠進める新興勢力百八十三名を擯斥処分に付して宗外に追放し、細井派の力をそいだ。

処分をまぬかれた者たちも、宗内で冷遇される。ちなみに細井管長の側近ナンバーワンであった光久諦顕は、かつて細井管長より名刹である東京の常在寺か常泉寺に移るよう言われた存在だった。ところが光久は昭和五十六年九月十日、大石寺塔中坊である妙泉坊から東京墨田区・妙縁寺の住職に飛ばされた。

その一方で法主の座についた阿部日顕は、最大派閥「法器会」の領袖・早瀬日慈(平成五年六月二十日死亡)と連携し、宗内基盤を強固なものにした。早瀬閥との連衡は、日慈の四男・義純(平成十一年十二月二十五日死亡)と日顕の長女・百合子との政略結婚によりすでに進められていた。同結婚は、昭和四十二年五月。細井管長の直弟子の集まり「妙観会」という新興勢力に対し、代々坊主の結束が進められていたといえる。


●山崎の日顕に対する怒り

ともあれここでは、山崎が阿部日顕より面罵され、どのように憤激したかを見てみよう。その痛憤ぶりを伝法寺住職・浜中和道が詳細に記述している。この浜中の『回想録』に描写された場面は、文中の記述により、山崎が阿部日顕にウソつき呼ばわりされた日の翌日のことであったことがわかる。

【資料七】『浜中和道回想録』

九月二十六日に私は伝法寺に帰った。山崎氏からは私の不在中、二、三度、電話がかかってきたようであった。夕方になって山崎氏から電話がかかってきた。
「和道さん……」

と山崎氏は言ったあと、受話器の向こうで、
「畜生、あの野郎!」
「ふざけやがって!」
「畜生!」

と、意味がよくわからないが、それでいて明らかに呪詛めいた山崎氏の唸り声とも言える声が聞こえてきた。私は受話器を耳に押しつけながら、山崎氏は気でも違ったのではないかと思った。
「もしもし。ボス、どうしたの?山崎さん?もしもし」

心配になって受話器に呼びかけたが、しばらく、
「畜生!畜生!」

と、連発する山崎氏の声が流れていた。私はただおろおろと、
「一体、どうしたの?何があったの?」

と、繰り返した。するとやっと平静になったらしく、
「和道さん、俺は頭に来たよ。こうなりゃ俺も命がけだよ。俺は徹底してやってやるよ。あの野郎!」

と、乱暴な答えが返ってきた。
「なに?一体、なにがあったの?」
「昨日、阿部日顕と会ったよ」

吐き捨てるような言い方であった。
「あの野郎が猊下なものか。和道さんも知ってるでしょう。日達上人が亡くなる前には、あいつには相承する気がなかったってことは」
「確かに今の猊下が御前さんの亡くなる日に大奥に呼ばれなかったことは聞いたけど」
「あの野郎は、俺がそのことを知らないと思って、法主面しやがって、今に見てろって言うんだ……」

また山崎氏は受話器の向こうで、ブツブツ言っていた。

私は受話器を握ったまま、山崎氏が冷静になるのを待った。
「阿部が俺に向かって、『あんたは大ウソつきだ。あんたを絶対、信用しない』って、さんざん罵ったよ」
「どうして?」
「知らないよ。俺がこの前、阿部に、『池田が前の猊下より、今の猊下の方が信心がない』と言っていたって教えてやったろう。それを阿部の野郎が池田に言ったんだって。そしたら池田が、『御本尊に誓って、そんなことは申しません』と言ったんだってさ。『御本尊に誓って』って、『池田は三遍も言った』って俺を怒鳴りつけたよ。あの野郎は、もう俺のことを『大ウソつき』と決めつけたんだよ。宗門と学会とこうなったのは、全部、俺の仕業だってさ、阿部が言うには。それで僕と日達上人と約束してあった仕事の件も全部パアだよ。一切合財、全部チャラだってさ」

ここまで言うと山崎氏の声は冷静になってきた。
「菅野さんが、とりなそうとしてくれたんだけど、『お前は黙ってろ!』という調子だよ。菅野さんも光久さんもダメだね。びびっちゃって。やっぱり、山口さんや佐々木さんたちでなきゃダメだよ。あれが猊下なんて、ちゃんちゃらおかしいよ」

山崎氏の怒りは冷めようもなかった。
「阿部の野郎、俺に対して『こちらからいいと言うまで、本山に来ることはまかりならぬ』だってさ」
「なんで、そうなったの?」
「知らないよ。池田からいろいろと僕のことを吹き込まれたんだよ。ともかく俺は、あの野郎のきのう言ったことを絶対に死ぬまで忘れないよ。あの野郎を必ずブチ殺してやるよ。絶対に仕返しするよ。今に見ていろってんだ」

山崎氏はまたブツブツ言うと、
「和道さん、光久さんにちょっと電話して、様子を聞いてみて?」

と言って電話を切った。

私は山崎氏に言われるまま、本山の光久師に電話をかけた。
「今、山崎さんから電話があったけど、猊下となにかあったんですか?」
「ワシもなにがなんだかよくわからないんだ。あのお目通りのあとも、猊下はすごく怒っていらっしゃって、『あいつは悪人だ』って仰っていたよ。ワシがもうなんと言っても、猊下のあの様子では無理だろうな」

光久師は戸惑った様子で話してくれた。


山崎の怒りは月が替わっても収まることはなかった。山崎は創価学会乗っ取りの野望を阿部日顕に対する復讐心と重ね、その後も日蓮正宗内において反創価学会活動を展開していた正信覚醒運動≠フ活動家たちや細井管長の側近たちが処分されるだろうと述べ、浜中に対し不安を煽っている。おそらく同様の煽動を、山崎は知りうる限りの「活動家」や元「側近」に対しておこなったのであろう。

なお、先の『回想録』の文中に出てくる「山口」は、東京・目黒の妙真寺住職・山口法興、「佐々木」は神奈川の小田原教会主管・佐々木秀明で、正信覚醒運動≠フ中心者である。


●正信覚醒運動≠ニ山崎

以下、ひきつづき『浜中和道回想録』を引用する。なお、文中の「国立の旦那」とは、細井管長の娘婿である大宣寺(東京・国分寺市)住職の菅野慈雲を指す。

【資料八】『浜中和道回想録』
〈昭和五十四年十月初旬〉
「世の中はね、独裁者が死ぬと次の独裁者が一番先にやることは、前の独裁者の側近を処分することなんだよ。なにしろ自分のライバルだったし、一番、目障りな存在だからね。しかも、僕にしても菅野さんにしても、あの人が相承を受けた猊下じゃないっていう秘密を知っているからね。光久さんだって、いつやられるかわからないよ。和道さん、あんただってそうだよ。ずいぶん池田さんを痛めつけてきたしね。毎日、阿部さんと池田さんは、『どうして、今までの恨みを晴らそうか』って考えているよ。佐々木さんたちだって、やられるよ。だから、ここで我々が団結しなくちゃならないのに、菅野さんも光久さんも、阿部さんから一喝されて、腰砕けちゃっているよ。でもあの人たちも今さら阿部さんに服従したってダメだよ。日達上人の威光を笠に着て、散々、阿部さんをやってきたからね。あの男は執念深いんだよ。だから僕もやられたんだよ」

山崎氏は吐き捨てるように言った。
「でも、国立の旦那さんは、全部、御前さんの指示に従ってやったことだし、今の猊下だって、そうだったじゃないの。旦那さんや御仲居さんは、日達上人の力をバックに偉そうにする人たちじゃないよ」
「そうかも知れないけど、阿部さんみたいにプライドの固まりのような男は、ちょっとでも自分に反対すると、全部、恨みに思うんだよ。菅野さんも阿部さんを無視していたとこもあるんだけどね。でも、俺はもう宗門にかまっちゃられないよ。自分の身を守るのが精一杯だから」

私は山崎氏の言うとおりならば、菅野師が大宣寺住職の座からも阿部師に引きずりおろされるのではないかと思った。私がそのことを山崎氏に言うと、
「それは、なきにしもあらずだね。でもその時は、僕と一緒に阿部さんに相承がないことを暴露すればいいんだから、要は菅野さんにその度胸があるかどうかだよ」

と言い放った。


阿部日顕が登座した昭和五十四年七月は、日蓮正宗内で反創価学会活動=正信覚醒運動≠ェ活発化していた。この正信覚醒運動≠フ担い手は、細井管長の子飼いである「妙観会」が中核メンバーであった。この運動の基底には、在家信徒に対するあからさまな差別感があった。それが反創価学会という意識を醸成した。

他方、これらの正信覚醒運動≠フ勢力は、阿部日顕や法器会を束ねる領袖・早瀬日慈ら代々坊主らの目から見れば、大変な脅威に映っていたことだろう。

山崎は、宗内の代々坊主と一代坊主(おもに妙観会)の対立構造を利用し、新興勢力である一代坊主たちに代々坊主たちを攻めさせようと煽る。

山崎は「憂宗道人」というペンネームで、正信覚醒運動≠フ機関紙である『継命』に扇動の文章を書いた。

【資料九】昭和五十四年十二月一日付『継命』
「創価学会問題の真相2 なぜ正信覚醒運動に立ち上ったか」憂宗道人

今、まさに御法主上人が先頭に立って、学会の陰険な体質を完ぷなきまで正す時にあたっているのである。今、まさに本音はお光さん≠フような、邪宗義的なもので固まっているではないか。前御法主上人が学会の謗法を正せと御指南されたとき、従おうとしなかった方々には、それなりの信念もあられたことだろう。しかし、だからといって、立場が変ったとたん権威をたてに、前御法主に忠実に宗門を守った人達や運動が弾圧されるようなことは、日蓮正宗だけにはあってはならぬし、今後はないと信じたい。まして、路線まで理由にならぬ理由で変えられるようなことがあっては、宗門の根本にかかわる重大な疑惑と事件を惹起するのではないかと憂うものである。


山崎がこの中で、
「宗門の根本にかかわる重大な疑惑と事件を惹起するのではないか」

と書いているのは注目すべきことである。阿部日顕の登座直後より、宗内に阿部日顕の相承疑惑の噂が飛び交っていたことは、先に紹介した『浜中和道回想録』に明らかである。山崎は阿部日顕を牽制するために、その「重大な疑惑」を匂わせはじめたのであった。

しかし山崎は、牽制はしても、まだ阿部日顕を決定的に敵にまわすことを避けている。山崎にしてみれば、法主≠フ権威は、創価学会を攻めるにあたって不可欠のものだった。細井管長の時代、山崎は法主≠掌中の玉≠ニすることにより、創価学会に対し故なき譲歩を強いることすら成功してきていたのだった。


【資料十】昭和五十五年二月一日付『継命』
「創価学会問題の真相5 なぜ正信覚醒運動に立ち上ったか」憂宗道人

ところで、この際明確にことわっておきたいことがある。我々は一部の悪意に満ちた人々のいうごとく、徒党を組んで宗門抗争を行うとか、御法主上人にたてつくことを目的としているのでは決してない。すでに第六十七世として、尽未来際の宗門史に名を残される方の名誉は、すなわち日蓮正宗の名誉と歴史とともにあらわれることを充分認識した上で、大聖人の仏法の本義に照らして、真実お護りすることこそ弟子の道であると信ずるゆえの行動であって、他意はない。正宗の法義と化儀を正しく護ることが御法主上人猊下の先師より受けつがれ、また、後代へお伝えになるべきお役目の極致である以上、我々の行動は妙法の鏡に照らして寸分の間違いもないと確信する。
〈中略〉

我々の指摘が正しく、正信覚醒運動の方向が正しかったから今日があり、御法主上人猊下も、学会に対して「信徒団体としてのあり方」を御指南あそばされているのである。極秘文書があばかれたから危険な本質を知ることができ、責任者が、反省と謝罪をすることになったのである。


山崎が阿部日顕に対し、先師・細井管長の「御指南」を守れと言ったことは逆効果になる。なにしろ阿部日顕は、山崎が先の「憂宗道人」名の文章で指摘したように、「重大な疑惑」そのものの身。阿部日顕にとって一番痛い相承問題を牽制球に使う者の言うことを聞く余裕などない。


●はがれ落ちた山崎の仮面

阿部日顕は「活動家」に対し、厳しい目を向ける。

これら、『継命』紙上の山崎の文書により、正信覚醒運動≠フ「活動家」らは、阿部日顕ら日蓮正宗中枢との対立をいよいよもって強めていくことになる。当然、「活動家」の関心と話題は、阿部日顕の相承疑惑に向かう。

浜中和道の『回想録』は、その当時の宗内の雰囲気を次のように伝えている。


【資料十一】『浜中和道回想録』
〈昭和五十五年初頭の宗内の様子〉

猊座に就いてまだ半年も経たないというのに、活動者僧侶≠フ間での悪評はさておいても、阿部師に対する宗門の中の風評は、決して芳しいものではなかった。そこにはやはり、不透明な相承問題が横たわっていた。阿部師の先輩格にあたる僧侶が、阿部師と電話で話した際、つい阿部師に、
「そんなこと言っても、君」

と言った途端、
「貴様!法主に向かって『君』とはなんだ!」

と怒鳴られたとか、ある僧侶が御秘符(法主だけの秘伝とされ、大石寺に伝わる重病人に飲ませる符)を願い出たところ、阿部師より、
「御秘符もいいけど『マコモ』もいいぞ」

と薦められたと話していた。当時、阿部師は痛風で健康食品の「マコモ」を愛飲していたのである。また阿部師が奥番の所化に、
「日達上人はどのようにして御秘符を作っていた?」

と質問したとの話や、
「御秘符が日達上人以前とは違う」

など、阿部師の法主としての資質から相承に関するものまで、あらゆる噂が飛び交っていた。そのことを阿部師も察知しているのか、お目通りなどの機会ごとに、
「もし俺が相承を受けていないというのなら、誰が相承を受けたんだ」
「俺が相承を受けてないというのだったら証拠を出せ」
「俺は相承を受けたから、ここにいるんだ」

と必死に言っているなどの噂が、片田舎にいる私の耳にも入ってきていた。もっとも猊座に就いて、まだ半年のせいであったからかもしれない。それでも、日淳上人や日達上人が、猊座に就かれると同時に全宗門僧侶から畏敬と信望を集められたのとは大きな違いがあると、老僧の幾人から話を聞いた。

阿部師があまりにも、
「俺は法主だ!」

と連発するのを見かねた山口師が、
「猊下、あまり『法主、法主』と言われないほうがいいですよ。人間は『俺は人間』とあまり言いませんから」

と、つい進言したそうである。それを聞いた阿部師の怒りは、想像に難くないものであった。


この昭和五十五年は、山崎正友の仮面が一挙にはがれ落ちた年である。その契機となったのは、山崎が経営する(株)シーホースが経営不振から売り手形を乱発し、確認されるだけで約四十五億円の負債をかかえて倒産したことであった。山崎は破綻を回避しようと、四月に創価学会より三億円を喝取した。さらに山崎は五億円の恐喝をもくろんだが、創価学会が警視庁に告訴したことにより、恐喝は未遂に終わり、山崎は捜査当局に取り調べられる身となった。

山崎は恐喝容疑での逮捕をまぬかれようと、さまざまなマスコミ媒体を使い、みずからを正義の内部告発者≠ニして演出しようとする。また正信覚醒運動≠煽動し、日蓮正宗を攪乱した。

もちろん、その煽動、攪乱の目的は、みずからを告訴した創価学会に対する反撃であった。

この頃の山崎の手法は、正信覚醒運動≠する者たち(当時すでに正信会を名乗っていた)を煽動し、阿部日顕ともども創価学会を中傷するというものであった。

山崎が利用したのは『週刊文春』や『月刊宝石』などのマスコミであった。山崎はそれらに実名で手記を書いた。


【資料十二】『週刊文春』昭和五十五年十月十六日号

池田氏は日達上人の死後、六十七世日顕上人をカイライ化し、その手で日達上人の側近や手兵達、即ち日蓮正宗僧侶を弾圧することによって復讐を遂げようとした。


【資料十三】『週刊文春』昭和五十五年十月二十三日号

阿部教学部長は、個人としての意見だが、と前置きして、
「宗内で若い僧侶が反学会的なのは、住職の資格が出来ても、入る寺がないため不満がたまっているということも影響している。正本堂以後、寺院の建立、供養がほとんどないので、学会に対して不満の矛先がむけられる傾向にある。どうか山崎さんから、会長さんや首脳の人たちに宗門の実情をよく話していただいて、僧俗和合のため寺院を作って下さるようお願いしてくれないか」

といわれた。宗門と学会とのトラブルの本質を、教義や体質問題ではなく、寺に入れない若い僧侶の経済不満であると見て、カネで解決しようというのが、阿部教学部長の考えだったのである。

日蓮正宗の僧侶というより、まさにマルクス・レーニン主義、唯物論の信奉者のような考え方をしていたのだ。


山崎は「申し上げるべきこと(二)」において、阿部日顕に寺院と墓地の建設の重要性を説いている。墓地はともかくとして、創価学会の興隆後、日蓮正宗が自前で新寺院を建設した実績はほとんどない。山崎は「申し上げるべきこと(二)」で、日蓮正宗が創価学会に新寺院を供養してもらうことを間接的に進言しながら、一方で寺院建設を創価学会に望んでいるとし、阿部日顕を「カネ」中心でものを考える人物だと批判しているのである。


●阿部日顕の法主相承に疑問を投げかける

山崎が、阿部日顕が正規の手続きによって相承していないと述べはじめたのは、日顕が登座してからおよそ一年半後、【資料十四】の『月刊宝石』からである。続いて【資料十五】の『週刊文春』でも同様のことを述べている。ただし、日顕がニセ法主であることについては、修飾語程度で、細かな経過説明はない。


【資料十四】『月刊宝石』昭和五十五年十一月号

猊座を簒奪した者や池田大作氏とその側近が、いかにウソの上塗りをしようと、私の手元にある動かぬ証拠資料にもとづいてすべて論破することは容易であり、そのときは、ウソの上塗りが多ければ多いほど日蓮正宗、創価学会の権威と体制の失墜の度合いは大きいであろう。


山崎は、阿部日顕が「猊座を簒奪した」ことについての「動かぬ証拠資料」があると公言している。


【資料十五】『週刊文春』昭和五十五年十一月六日号

池田大作氏の策略に従って、不正な手段で法主の座を簒奪した日顕上人は、池田氏を守るために最早、引き返せぬ一本道を歩んでいるのである。


山崎は、阿部日顕が「池田大作氏の策略に従って」法主の座を奪ったと書いている。ところがいま阿部日顕は正統な法主であるというのだが、それは誰の「策略に従って」のことであろうか。

次に紹介する【資料十六】の引用文の前に、山崎は阿部日顕について、「一貫して学会の宗門制圧に手を貸してきた阿部新総監の腹の中は、池田氏と気脈を通じ、学会の力をバックに次期法主となることであった」と人物評価をしている。しかし、そうこきおろしながらも、細井管長が阿部日顕に、昭和五十四年四月末から六月末ごろまでは、法主の座を譲ろうかと考えていたかのように述べ、さらに細井管長が、その死の直前に、阿部日顕に対して決定的不信をもったことを強調している。山崎が「具体的経過」を述べながら、細井管長から阿部日顕への相承がなかったことを初めて記した注目される文である。

またこの文は、昭和五十四年五月、阿部日顕が日蓮正宗総監になった頃の事情について触れている。


【資料十六】『週刊文春』昭和五十五年十一月十三日号

この頃、日達上人の周囲でも、いろいろ論議があった。

多くの僧侶から、
「だれが法主の後継者となっても良いから、あの人(阿部総監)だけは、選ばないでほしい」

との陳情がなされた。総監になることにも抵抗があった。日達上人は、
「(総監を)やらせてみて、どうせ学会にゆさぶられて泥をかぶるのだから、そのときおろせば良い」

となだめられた。

又、
「法主の座をゆずるということになれば、本当に学会と手を切って、日蓮正宗の立場でやるということについて、一筆書かせては」

という進言もあったが、これに対しては、
「その時はそうする。今ゆずるのではないし、秋までに、よく見るから」

と答えられた。
「もし、阿部が総監の任にたえ、順調に行き、宗門が安定するならば、十月、御登座二十周年を迎えたあと、隠居して、阿部にゆずろう。ただし、たよりないから、菅野慈雲を総監にすえ、隠尊となった自分と上下から抑えて、しっかり見守ろう。もし、適性を欠くようなら、思い切った人事を考えよう」

というのが、少くとも四月末から六月末までの間の、日達上人の御予定であったことは間違いない。だが七月に入り、日蓮正宗と創価学会の間は再び風雲急をつげてきた。形式上であれ、池田辞任で外堀をうめられた学会にはもはやあとがない。大阪夏の陣である。

そして、日達上人のお考えが同じく七月に入ると根底からゆるぎ、怒りをともなった阿部不信≠ェ、にわかにあらわになって来たのである。そのさなかでの日達上人の発病であった。そして突然の死であった。


しかし、前掲【資料十六】には、大きな矛盾が見える。山崎は、この文で細井管長が阿部日顕に対して「決定的不信」をもった事実経過を述べている。だが、細井管長が隠居して千葉に住もうとするのは理解できても、法主となり宗門の実権を握った阿部日顕を隠居の立場で、細井管長がコントロールしていくというのは不自然である。しかも前記したように、山崎は、この『週刊文春』の引用箇所の前に、
「一貫して学会の宗門制圧政策に手を貸してきた阿部新総監の腹の中は、池田氏と気脈を通じ、学会の力をバックに次期法主となることであった」

とまで書いている。
「池田氏と気脈」を通じた阿部日顕が法主になれば、細井管長の娘婿を総監にしても阿部日顕の指示に従うしか術はない。山崎の言う、隠居した者と宗務行政ナンバーツーにある総監とが、時の実権者である法主をサンドイッチにし、コントロールしようとしていたとの説は説得性に欠ける。ここでも山崎の荒唐無稽さがあらわれている。

山崎がこれら相承≠ノ関わる文書を書く本質的な狙いは、自分こそが相承≠ノ関する事情を一番よく知っているとして、正信会のみならず、阿部日顕に対しても影響力を残していこうとしている点にあると分析すべきである。


●細井管長から評価されていなかった日顕

次の【資料十七】は、細井管長が亡くなる直前の阿部日顕に対する評価を山崎が書いたものである。文脈から推定するに、細井管長死去の三日前、昭和五十四年七月十九日の出来事と思われる。ここでも山崎は、自分がいかに細井管長の懐に飛び込んでいたか、また日蓮正宗管長の後継人事問題をも相談を受ける立場にあったと、自分を大きく見せることに腐心している。

この【資料十七】において山崎は、七月二十一日に細井管長と二人きりになり、あたかも自分が最も信頼された弁護士として、細井管長から事後の相談を受けたかのように装っている。


【資料十七】『週刊文春』昭和五十五年十一月二十日号
(筆者註 七月二十一日フジヤマ病院で)もろもろの手配のために立つ菅野尊師と一緒に部屋を出ようとした私を、日達上人が呼び止められた。それから二人だけで三十分ばかりお話しした。私が日達上人と人をまじえずにお話ししたのは、七月にはいって、これが四度目だった。

〈中略〉
(筆者註 七月十九日夕方フジヤマ病院で)日達上人は、急に顔を赤くされ、語気も荒くなられた。
「昨日、阿部にいってやったんだ。お前はそれでも日蓮正宗の坊主か、とね。池田や北条ににらまれると何もいえない。自分だけアメをしゃぶらされて、良い子になって、私をはじめ他の僧侶が悪者にされたのではかないませんよ。もっとしっかりいわなくては」

そして、しばらく沈黙されたのち、
「あんたも知っての通り、十一月には二十年(法主になられてから)を節にして(法主の座を)譲って楽になろうと思っていたんだが、これではなあ。昨年までに年寄りが次々死ぬし、光久(諦顕尊師)は法主になるのは死んでもいやだというし、菅野(慈雲尊師)は、二、三年若すぎる。順番からいけば、あとは阿部しかいないんだが」

この問題については、五十三年八月に一度、そして五十四年四月二十九日にもう一度、かなり詳しくうかがっていた。その日、私は日達上人の誕生祝いの絵を持参して、文京区西片町の大石寺出張所へ伺った。居間でテレビを見ながら、くつろいで二時間ばかりお話ししたが、そのとき、今後の見通しのためにと、宗務院の人事とともに、秋の引退予定のことも話された。

私は、
「私は六十六世の御法主上人に御奉公できればそれでたくさんです。次の方にまでとても御奉公出来る力はありません」

と申し上げた。本音であった。
「だから、猊下が一日も長くお元気でいられることを祈っております」

私の言葉をどういう意味にとられたのかわからないが、日達上人は、
「私が隠居になって千葉に住んで、しっかり後見をする。菅野を総監にして下から固める。二、三年見て、だらしないようだったら替えるよ。阿部は、以前は学会べったりでだらしがなかったが、今はちがう。早瀬(日慈総監=当時)とちがって、まだ芯があるし、学会にはきびしいものをもっている。若い連中がいうほどの学会べったりではないんだよ」

と説明を加えられた。

しかし、病院でのお話は、方向性が大きく変わっており、情勢もいささか緊迫していた。日達上人の決断次第では、思いがけない方向に全体が動かずにはいられない。といって、日蓮正宗の信仰のわかっている人なら理解いただけると思うが、このような事柄に、信者の私が口を差しはさめる道理はなかった。
「とにかく万全の治療態勢をとりますから、おくつろぎになって、難しいことはお考えにならずに、ゆっくりお休み下さい」

私は努めて軽快に申し上げた〈中略〉翌朝(筆者註 七月二十日朝)、六時過ぎに病院に行き、部屋をのぞくと、奥様は洗面のため部屋を出られていて、日達上人は一人でおられた。
「おはよう、ずいぶん早いね。御苦労様」

元気なお声に、ホッとした。
「今日は色々と検査があります。H博士は、今夜か明日昼までに来てくれます」
「それはどうも有難う。あんたは朝が弱いのに、こんなに早く起きて大丈夫かね」

冗談をいわれ、こちらがかえって恐縮した。前夜は洋服を着たまま夜通し祈って、一睡もしていなかった。
〈中略〉

近年では、御相伝の事は、後世に疑いをのこさぬために明確かつ公然と行われている。もし、日達上人が、御在世中にその事を行われていたならば、必ず公表されておられるはずである。ただちに法主の座を譲られぬ場合でも、あらかじめ定めた次期法主を学頭職につけられるのが、伝統である。

又、宗規によれば、譲られる方は、「能化」でなくてはならぬ。緊急上む(ママ)を得ない場合≠ノのみ、「大僧都」の中から指名することができるとなっている。緊急止むを得ぬとは、不可抗力により、法主の死が急で、能化の僧が近くにいない時、ということであろう。 心臓が悪くて、いつ万一のことがあるかわからないから、前もって≠ニいうような場合は、緊急止むを得ずとはいえないし、仮にそういう配慮から後継者を前もって定められるときは僧階を上げられるなり、学頭職につけられるなり何らかの形が、とられるはずである。

日達上人は、事実上の指名≠ネり、心づもりなりを周囲の人人に話されたことはあるが、御相伝≠サのものは、なされていた形が、どこにも見当らない。見た人は、だれもいなかった。


以上のように山崎は、細井管長が光久を後継に指名したが本人が固辞したこと、次期法主として阿部日顕を候補者の一人としていたが、亡くなる直前の七月十九日には、阿部日顕に対する憤りを山崎に話していたことなどを、こと細かに述べている。そして山崎は、相承が誰に対してもなかったと明言しているのである。


●ますます図に乗る山崎

次の【資料十八】は、前掲の山崎の書いた『週刊文春』(昭和五十五年十一月二十日号)の文章の本当の部分とウソの部分を区別するのに役立つ。浜中和道はこの山崎の記事を冷静に、距離を置きながら見つめ、その虚と実を見抜いている。


【資料十八】『浜中和道回想録』
〈昭和五十五年十一月十三日に関する記述〉

十一月十三日、お講が終わって一息ついているところに山崎氏から電話がかかってきた。
「しかし、和道さん、阿部日顕という奴はホントにバカだね。つくづく僕はそう思うよ。頭が悪いんだね」

山崎氏はため息をつくように言った。
「そうだね。だから正信会を弾圧するんだよ」

私はため息まじりに相槌を打った。

十一月七日の国会請願デモを行なえば、山崎氏の阿部宗門と正信会の和解が成立する≠ニいう予言は見事に外れていた。阿部執行部は、一向に動く気配はなかった。
「いや、それもそうだけどさ、俺を敵に回したってことがバカなんだよ。阿部の失敗は」

山崎氏独特の言い回しに、私が戸惑っていると、
「きょう出た『週刊文春』に僕が全部ホントのことを書いといたからね。阿部日顕に日達上人から血脈相承がなかった事実をね。だってそのことを知っている生き証人だから、僕は、さっ。阿部も池田なんか味方にしないで、僕のほうについてれば、学会なんかどうでもできたのにさ。それに正信会のみなさんや檀徒だって、『猊下、猊下』って崇め奉ってくれるのにね。あいつはバカだよ。まあ、二、三日したら竹田でも発売してると思うから、和道さん、読んでてよ。阿部の相承に関しては、きっちりホントのことを書いといたからね。これが俺流のケジメですよ」

と、けだるそうな声で言い、山崎氏は電話を切った。

数日経って、私は『週刊文春』を買いに行った。山崎氏の手記は、「二つの疑惑=日達上人の遷化と阿部日顕の相伝」と題され、掲載されていた。記事を読むと、日達上人が亡くなられた昭和五十四年七月二十二日のこと、前夜から山崎氏より連続で電話で知らされた日達上人の様子がまざまざと思い出された。忘れようにも忘れられない二日間であった。山崎氏は、
「全部ホントのことを書いといたから」

と言っていたが、やはりずいぶんと潤色してあった。特に日達上人が亡くなられる前々日のことを、
「前夜は洋服を着たまま夜通し祈って、一睡もしていなかった」

と書いていたが、私の記憶では、山崎氏はその夜、富士宮グランドホテルで彼女と逢い引きをしていたはずである。
「いやあ、疲れたよ。疲れた時の回復は、女と会うのが一番だよ」

と、山崎氏が言っていたのが七月二十日の夜であった。

それに七月二十一日の夜のことを、
「もろもろの手配のために立つ菅野尊師と一緒に部屋を出ようとした私を日達上人が呼び止められた。それから二人だけで三十分ばかりお話しした」

と記してあったが、その夜、私にかかってきた電話では、
「猊下が、『もう休む。みんな、今日は帰っていいよ』と、おっしゃるので奥さんにお任せして、菅野さんと光久さんと今、別れたばかりですよ」

と山崎氏は言っていた。あの奥様が、重病の日達上人の病室を離れ、山崎氏と日達上人を二人きりにし、しかも三十分という長い間、話をさせるはずはなかった。
「奥様を含めて三人だけで」

ならば納得できるが、
「二人だけ」

という山崎氏の手記は眉唾であった。日達上人、奥様の性格からして、そのような場面は、私には考えにくかった。ほかにも日達上人と山崎氏との二人だけの会話の場面が記述されているが、これも私には、疑問符のつく手記だった。しかし、山崎氏の手記で、
「近年では御相伝のことは、後世に疑いを残さぬために明確かつ公然と行なわれている。もし日達上人が御在世中にそのことを行なわれていたならば、必ず公表されておられるはずである。 〈中略〉

日達上人は、事実上の指名≠ネり、心積もりを周囲の人々に話されたことはあるが、御相伝≠サのものはなされていた形が、どこにも見当たらない。見た人は誰もいなかった」

と書かれている箇所は、まさしく宗門人の誰もが思っている疑問であった。日達上人が、不明瞭な形で阿部師に相承をされるはずはなかった。

この山崎氏の手記が、のちに正信会が阿部師の相承を否定する根拠の一つになった。

数日経って、山崎氏から電話があった。例のキャッ、キャッとハシャいでいる声だった。
「どう?よく書けてるでしょう?面白い?正信会の坊さんたちも、『よく書いてくれた』って喜んでたよ。『宗門の坊主が思っていても、口に出せなかったのをよく書いてくれた』ってさ。みんなから感謝されてるよ。みんなも阿部と戦いやすくなったでしょう。週刊誌も僕の書いたのを載せると売上げが伸びるんだよ。


浜中は、山崎が細井管長と二人だけで話をしたとしていることについて、強い疑問を抱いている。細井管長に「奥様」がつきっきりだったことは、翌日死亡するという重篤な状況からしてみても疑問の余地はない。山崎が細井管長と二人きりになったことについて、浜中は電話で山崎が自分に話した内容と違うとも指摘している。

次の【資料十九】は、非常におもしろい文章である。山崎の本音がみごとにあらわれている。自分の意思にそってコントロールできる法主であれば、相承があろうとなかろうと守るし、そうでなければ戦うと言っているのである。


【資料十九】『週刊文春』昭和五十五年十一月二十七日号

しかし、私は、次の法要に出席することなく、そのまま、東京に帰った。いかなる懐柔にものるつもりはなかった。とにかく、日達上人の残された路線を護る役目が、私には課せられていた。そのために、勧進帳だって、忠臣蔵の大石内蔵助だって演じよう。たとえ、相伝をいつわって登座した方でも、日達上人の御遺志をつぐ方なら、従いお護りすることに、やぶさかではないが、そうでなければ、真実を明かし、戦わなくてはならぬ時が来るに違いないと、私は心に決めていたのである。


山崎のいう「日達上人の御遺志」とは、山崎自身の意志を指している。それは、かつて山崎が細井管長のことを掌中の玉≠ニ称したことからもわかる。山崎にとって法主は操り人形でなくては気に食わないのである。操り人形になるならば、「相伝をいつわって登座した方」でも、人前では立てると言っているのである。

次の【資料二十】で、山崎はニセ法主・阿部日顕のみならず、それに追従する宗務役僧まで個人攻撃の対象としている。


【資料二十】『週刊文春』昭和五十五年十二月二十五日号

ある役僧は、当時のY市長と富士宮の検番でナンバーワンの売れっ子芸者を争い、金の力で見事勝利をおさめた。何号かにして、かこっていたが、評判になったので沼津、三島方面に移したということである。

ある役僧は、酒に酔い、女性をわきにのせてドライブ中、人をはねてしまった。出入りの業者Sモータースと相談した上で同社の従業員を身替り犯人として出し、そのかわり、本山ではSモータースから、自動車を一手に買い入れるという約束をした。このような破戒僧が、相伝をいつわった法主のもとでは、渉外部長、庶務部長、海外部長として、まことに羽ぶりがよいのである。


確かにいまの日顕宗において、破戒僧たちが羽振りよくしていることは間違いない。そして山崎は、哀れにもそのおこぼれにあずかろうと、法主¢鰹ウについて偽りの証言≠しているのである。


●「新事実」の作出は山崎の得意技

【昭和五十六年】

この年の一月二十一日、正信会の有志百八十四名が、静岡地裁富士支部に阿部日顕の「地位不存在の確認並びに職務執行停止の仮処分申請書」を提出した。これにより、阿部日顕と正信会の者たちとの対立は、回避できないところまできた。正信会にしてみれば、阿部日顕の相承の有無が、自分たちに対する破門処分の有効、無効につながるのである。正信会と阿部日顕は対決の場所を裁判に求めた。

のち、正信会にまつわる裁判の中で、阿部日顕は細井管長より自分に相承があったことを明確に示すことができなかった。

それはさておき、一月二十四日、山崎は逮捕された。煽動者を失った正信会は窮地におちいった。山崎は逮捕直前に『週刊文春』編集部に原稿を渡していたが、そこにも阿部日顕に相承がなかったことが明言されている。


【資料二十一】『週刊文春』昭和五十六年二月十二日号

私も、ずい分書き、しゃべったが、しかし、それでもなお、真相のすべてを語りつくしていない。今まで公表したことの何倍もの事実と資料が未公開のままである。 〈中略〉

阿部日顕が、相伝を受けたという、昭和五十三年四月十五日は、丁度、日達上人は、自分の健康状態が極めて悪いと思い込まれ、グッタリとなって寝込んでおられることが多かったときであった。
〈中略〉

私は、日達上人が亡くなられる前日、東京の病院に移ることをおすすめしたのであったが、日達上人は、
「明日、一日だけ本山に帰る。大体のことをしておいて、あとは何カ月かかってもかまわんからゆっくり治療する」

といわれ、
「明日、帰るから、対面所に布団をしいておけ」

と命令された。
〈中略〉

その矢先の急な御遷化であった。相伝をなさる間もなかったから次の法主は宗制宗規に従って、早瀬日慈尊能師にまちがいないと思っていたのであった。
〈中略〉

私が今回述べたいことは、阿部日顕が、正しい手続で法主になったのではないこと、また、およそ法主にふさわしくない野心家であり、乱れた生活をしていたことの二点である。
〈中略〉

ところが日蓮正宗の管長、法主の地位は、日達上人の亡くなられた後のドサクサまぎれに、阿部日顕が、
「俺がなる」

といっただけで決まってしまった。
〈中略〉

阿部日顕は、昭和五十三年四月当時、「大僧都」の位だったから、相伝を受ける資格は緊急止むを得ざるとき∴ネ外にない。当時の状況からみて、緊急止むを得ぬとはまったく云えないし、もし本当にゆずり受けたのなら、そのとき少くとも能化になっているか、宗規に従って「学頭職」についていなくてはならないのである。

あらゆる状況――前後を通じて――からみて、阿部日顕は、相伝を受けているとは考えられず、また、宗規にてらしても,違法である。その後の、例えば御秘符の作り方その他などをみても、先代までとあきらかに違って我流である。このことについては、私一人でなく複数の証人がいる。
〈中略〉

日顕みずからが、若い頃より知らぬ人のない遊とう児であった。強姦罪を犯して破門となった僧侶が曰く、
「俺も、あの人とは親友でたいていの遊びは俺が教えたが、女遊びだけは、生まれつき、あいつの方が上手だった」

同門の僧侶いわく、
「日開上人(日顕の父親)が亡くなったとき、日顕は、吉原にいつづけをしていた。吉原から帰ってみると、親父の上人が死んでいて、大さわぎだった」
「熱海に愛人が出来て、女房と離婚していっしょになるとさわいだことがあった。止める母親の尼にくたばれ≠ニ乱暴を働き、たまりかねて、尼は何カ月も家出をしていた。

金がなくなると、先輩の寺に朝早く来て、門前で無心して行った。はなれたところの電柱のかげで、女がかくれて待っていたよ」
「この愛人のことは、最近まで、良い女だった≠ニおしそうにいっている」
「京都の平安寺にいる間も、神戸の福原、大阪ミナミのピンクサロン、生駒の岡場所などへ毎日のようにくりこんでいた。弟子と同じ女を相手にしたこともある」
「地方に法要に出たあと、夜は必ず遊びに出るので、女房が心配でたまらず、法主になったあとは、必ず同行するようにしている」

いずれも同輩、友人であった僧侶の話である。日顕の私生活はゼニゲバであり、遊興以外の何ものでもない。


阿部日顕の放蕩ぶりは、山崎の書いたとおりである。それはさておき、以上の引用文で注目されるのは、これまた山崎らしい言い草であるが、
「私も、ずい分書き、しゃべったが、しかし、それでもなお、真相のすべてを語りつくしていない。今まで公表したことの何倍もの事実と資料が未公開のままである」

と思わせぶりなことを述べている点である。自分が状況の変化次第で、また「新事実」を出せる余韻を残しているのである。
「新事実」の作出は山崎の得意技。山崎の舌は「新事実」を、相手の出方次第でどうにでも作り出すのである。


●山崎に踊らされていた正信会

正信会が山崎のこの器用な舌にのせられ、その舌に踊らされていたことが、いまでは明らかとなっている。山崎は正信会を裏切り、いまや阿部日顕の側につき、阿部日顕に相承があったと、正信会の存在の根底を揺るがす「新事実」を述べている。そればかりか、正信会について、原島嵩との対談の中で、
「若手活動家僧侶たちの動きは反学会≠ニいうだけに止どまらず、勢い余って一種の宗内クーデター≠ニいう方向に向かっていた、と思います。このことで日達上人はたいへん悩まれました」(平成十五年八月十六日付『慧妙』)

とまで述べている。山崎の薄情さと不誠実さを示してあまりある発言である。これでは山崎の舌に踊らされた者は哀れの一語に尽きる。

ちなみに山崎は、昭和五十六年七月六日に保釈されたときには、保釈金一千万円を正信会に立て替えてもらっている。その後もさまざまなカンパを正信会に所属する僧俗から受け、昭和五十八年には正信会より五百万円をもらっている。

山崎の対談相手である原島嵩も、平成十年十一月十日まで正信会の継命新聞社に勤め、ろくに出社もしないのに月々の給与をもらっていた。

要するに、山崎・原島の両者が、阿部日顕側に寝返った最大の要素は、正信会から金が出なくなったということにあった。


【資料二十二】『浜中和道回想録』
〈昭和五十六年二月末の描写〉

二月末に継命新聞社の社員が、山崎氏に面会したそうであった。その時、日達上人から阿部師への相承疑惑について、山崎氏にいろいろと尋ねたそうであった。山崎氏が昨年昭和五十五年十一月二十七日号の『週刊文春』に載せた、
「たとえ、相伝をいつわって登座した方でも、日達上人の御遺志をつぐ方なら、従いお護りすることにやぶさかでないが、そうでなければ、真実を明かし、戦わなくてはならぬ時が来るに違いないと、私は心に決めていたのである」

との手記や、山崎氏の逮捕直前の手記、本年二月十二日号の『週刊文春』に書かれている、
「今日の日蓮正宗の紛争の原因は、池田氏が起死回生の最後の一策として阿部日顕に法主を僭称させたことからおこっている……私は日達上人の遺言執行人として、正しい日蓮正宗の法燈を回復し……」

という山崎氏の相伝にまつわる「真実や」「日達上人の遺言」を正信会が起こした「管長不存在」の裁判のために、確認したとのことであった。

しかし山崎氏はそのことについて、
「今は話せない」

と、返事したそうであった。そのことについて佐々木師は、
「山崎は、なにも知っちゃいないよ。あれだけだよ。あのおしゃべりが、もしホントにそんなことを知っていたら、今まで隠しておくもんか」

と、言っていたそうである。私もそうに違いないと思った。

児玉師(筆者註 福岡・無辺寺住職の児玉大光)は、
「もう別にわざわざ山崎に訊かなくても、阿部さんに相承がなかったことは宗門の誰もが知ってることだよ」

と言った。


山崎は昭和五十六年七月六日に保釈となる。前述したように、このとき一千万円の保釈金を正信会に立て替えてもらっている。山崎は出獄するや、すぐさま阿部日顕の個人攻撃をおこなう。


【資料二十三】『週刊現代』昭和五十六年七月三十日号

現法主を僣称する阿部日顕は、女遊びとぜいたくの好きなぼんぼんでしかない……


逮捕前から始まり、保釈後も続く山崎の個人攻撃に対して、阿部日顕は【資料二十四】のように反論している。

山崎と阿部日顕の応酬は年を越えて、昭和五十七年まで続く。

この悪口雑言を互いに浴びせかけあった二人が、池田名誉会長への嫉妬、創価学会への憎悪から、のちに結託して蜜月時代を迎えることになる。山崎が阿部日顕の相承≠保証する役割を担う。これはまったくもって、笑止千万と言わざるをえない。まずは無節操な者たちが悪口罵詈し合うその様を、以下の資料を読みながら、読者諸賢は記憶にとどめていただきたい。


●エスカレートする山崎の日顕批判

まずは阿部日顕。正しい仏法を行ずる創価学会に対し、山崎が悪口を言っているのは陰謀であると説法する。


【資料二十四】昭和五十六年八月二十五日「全国教師講習会(総本山)」(『大日蓮』昭和五十六年九月号)

私が最近読んだある本の中にも書いてありましたが、ある陰謀によって、学会が悪く言われている点が非常に多いらしいのですが、これは時と共にはっきりしてくると思います。まだまだ君達の中にも学会に悪いところがあったんだとか、あるんだというふうに思っている人がいるかもしれませんけれども、意外にそうではないと思います。

例えば、私は前からおかしな人間がいると言っておりましたが、それは山崎正友のことを言っておったのであります。登座以来、名前は挙げなかったがそのことを申してきましたけれども、その点に関しては、今ははっきりとしてきました。そして将来、今は学会が色々なことで反社会的だというようなことを週刊誌等で喧伝されておりますが、それも今にはっきりしてきます。あるいは池田名誉会長の問題にしてもはっきりしてくると思いますし、はっきりしてみれば何ということもないものだと思うのであります。

それらは結局、正しいことをきちんと守り、本当に正しい仏法を守っていこうとする人に対しては、悪口を言う人間がいるということであります。


山崎の阿部日顕に対する批判。阿部日顕は遊蕩坊主。


【資料二十五】『諸君!』昭和五十六年十月号

吉原に入りびたりで親である元法主の死に目にもあえなかった僧侶……。


山崎曰く。阿部日顕は遊郭にいて、親の死に目にあえなかった。


【資料二十六】『諸君!』昭和五十七年一月号

父親の日開上人(日蓮正宗六十世法主)が亡くなったときも、友人と吉原の遊廓にいつづけしていたため、(もちろんそのときも僧侶の身でした)死に目に会えなかったという逸話は……。


山崎と「結託」した者は、狂い、不幸になるとの阿部日顕の説法。


【資料二十七】昭和五十七年一月五日「全国教師初登山」(『大日蓮』昭和五十七年一月号)

最近発刊された『謀略僧団 悪業の巣』という小冊子がありますが、それによると山崎正友というような人間が、いかに宗門の僧侶と結託し、それを狂わせているかということを詳しく書いております。ほんのひと握りの我見、我欲、そして我がままで、宗門を自分達のちっぽけな考えによって自由に操ろうとするような魔の用きをもった僧侶達と結託をして、かわいそうに、多くの僧侶がそれに流され、また縛られて、今現在、不幸のどん底に堕ちております。これからのち、ますます彼らは不幸になってまいります。


阿部日顕の説法。山崎はウソで人を操っている、表に出ている「悪業」は、ほんの一部。


【資料二十八】昭和五十七年一月十一日「無任所教師初登山」(『大日蓮』昭和五十七年二月号)

また最近、山崎正友と正信会とやらの幹部である佐々木秀明とかの連中との癒着を書いた本が出回っているそうですけれども、やはりそれはそのとおりだと思います。ですから私は二、三年前からそのようなことについても皆さんに警告をしていたはずです。必ずおかしな人間がいて、非常に巧妙な手口で嘘を本当のような形で操り、それに全部が巻き込まれていっているということを申してまいりましたが、そのような本を読めばそれがよく解ったことと思います。もちろん、そこに書かれてあるものが全部ではなく、実際にはまだ隠れた彼等の悪業の数々が必ず有ると思いますけれども、いずれはその全体が明らかになってくると思うのであります。

それらのことを総合して言えることは、やはり一番の根本は信≠フ一字に尽きるということでありまして、正しいことをただ信じていく、そこに一切の正しい元が存しておると思うのであります。


阿部日顕の説法。山崎は僧と僧、僧と俗の離間を工作、表に出た「策動」は一部にすぎない。


【資料二十九】昭和五十七年一月十九日「全国宗務支院長会議兼教師代表者会議」(『大日蓮』昭和五十七年二月号)

先般『謀略僧団 悪業の巣』と題する、山崎正友等の所業に対しての裏側から見た、ある程度のことを書いた小冊子が出版されまして、私もそれを一読しましたけれども、あれはまだほんの一部分のような感じがいたします。実際にはまだまだ分からないところ、深いところで色々な策動があり、それによって多くの人々が根本的に狂った見解を抱かされ、そして僧と俗の離反、あるいはまた僧と僧との離反等が行われたのであります。


阿部日顕の説法。自分に相承がなければ、「仏法は絶えたことになる」。そうなれば「大聖人は仏様ではない」。


【資料三十】昭和五十七年三月三十一日「第三回非教師指導会」(『大日蓮』昭和五十七年五月号)

私としては、君達にこのようなことを申したくもないのでありますけれども、今日、百数十人の者どもが変なことを言っておりますが、その中心は日達上人はだれにも相承をされた形跡がない。故に阿部日顕師は法主・管長を詐称しているんだ≠ネどというばかげたことなのであります。

しかし、もしも日達上人が相承をなさらなかったとすれば、どうなりますか。仏法は絶えたことになるではありませんか。日達上人がもしもそのことをなさらないで御遷化になったならば、本当に仏法はなくなっているわけなのです。〈中略〉もしもなくなったならば、大聖人は仏様ではないということであり、末法の一切衆生を成仏させることはできないということになるのであります。


山崎が阿部日顕に反論し、妙信講問題のときに阿部日顕が逃げたと笑う。


【資料三十一】『諸君!』昭和五十七年六月号

思いおこせば、昭和四十七年七月、妙信講≠ニいう講中が貴方の教義歪曲と横暴に対して糾弾に立ち上り、
「たとえ流血の惨がおころうと、我々はあとにひかぬ」

とはげしい行動に及んだことがありました。このとき当時の宗務総監早瀬道応師と、教学部長阿部信雄(現日顕)師は、身に危害が及ぶのをおそれて、いちはやく行方をくらましてしまいました。有馬温泉あたりで、じっと息をひそめて成りゆきを見守っていたそうであります。 〈中略〉

日達上人は、成りゆきによっては、あるいは、身に危害が及ぶかも知れないと覚悟を決められ、白装束をまとい、辞世の歌まで用意されて、妙信講説得におもむかれました。

そのころ、北条前会長が、日達上人とかわした会話の記録が、北条氏自身の筆でものこされています。

日達上人「早瀬と阿部は、殺されるかも知れないといってどこかへ逃げてしまった。だから、私が説得にいきました。

仏法のために死ねたら、(僧侶として)本望だと思うが……、とにかく逃げてしまったから、法主の私が出かけていきましたよ」

当時の御法主日達上人を、生命をかけてまもるべき立場にあったにもかかわらず、スタコラ逃げてしまった阿部日顕師が、法主を僭称した後、自分の周りの人間をだれも信用できず、昼も夜も、ものものしく身辺の警護を固めているのも、むべなるかなといえましょう。


山崎が阿部日顕のいう「昭和五十三年四月十五日」に「内々に相伝を受けた」ことを否定。


【資料三十二】『諸君!』昭和五十七年八月号

少くとも、昭和五十四年七月二十二日、お亡くなりになるまで、日達上人は、後継者を決めかねておられたことだけは明白です。そのことについての証人は他にもあります。

私が日達上人のお側をはなれたのは、日達上人がお亡くなりになる四時間前であります。そして、私が、上人のお側をはなれている間に、阿部師が日達上人の側にいたということは、阿部師が東京にいた関係上、不可能です。

阿部師は、そこで、昭和五十三年四月十五日、日達上人から、内々に相伝を受けた、と称しています。

しかし、この頃、日蓮正宗と創価学会の間は決裂状態になっていたのみか、親学会派≠ニみなされていた、早瀬総監、阿部日顕教学部長(当時)らは、日蓮正宗内において、日達上人の信を失い、実権をなくしていた最中のことです。


山崎が阿部日顕の不相承について、まだカードを持っていると恫喝。


【資料三十三】『諸君!』昭和五十七年十一月号

そのために、私がまだまだ手の内に秘しているカードは、決してすくなくないことを、念のため、予告しておきます。


山崎が、阿部日顕は「相承を偽った」と話す。


【資料三十四】昭和五十八年一月一日付『継命』

昭和五十七年十二月五日(「創価学会の社会的不正を糾す会」結成式 兵庫・西宮市の勤労会館)

ところが、ある朝、突然電話がかかってまいりました。
「どうだ、山崎さん、始めたぞ、見たか?」

何のことか、誰かもさっぱり分らない。寝ぼけ声で、
「あの、どなたでしょうか」 と聞きますと、
「細井です、細井だよ」

私はびっくりして目が覚めました。それから正信覚醒運動が公になっていきました。そういうエピソードがございます。 〈中略〉

しかし、日達上人がご遷化となるや池田氏は、相承を偽った阿部師に組(ママ)し、正宗の法統を護らんとする正信会のご僧侶方を弾圧し、その運動に組(ママ)したということで私をも弾圧してまいりました。それが恐喝のデッチ上げということであります。


山崎は、細井管長が電話をかけてきたという。当時、携帯電話はない。部下であった私ですら、山崎がどこで寝ているのか謎だった。山崎は寝ぼけた話をしているのか、はたまた得意のデッチ上げなのだろうか。

阿部日顕と山崎正友のこの応酬の間、阿部日顕は山崎の手勢である正信会に対して、徹底した強権発動をおこなった。この年、擯斥された正信会僧侶は以下のとおりである。

 二月五日    十一名
 四月五日    二十六名
 八月二十一日  四十二名
 九月十六日   四十名
 九月二十四日  五十四名
 十月十六日   三名

これは阿部日顕が法主の座について以来、企図していたことである。阿部日顕は法器会の領袖・早瀬日慈と連衡し、代々坊主勢力をもって、一代坊主勢力である細井前管長の直弟子グループの力を宗外に追放したのである。ヌエ的な判断と立ち回りをする代々坊主から見れば、山崎の口車にのせられて踊る小雀たちは、格好の餌食であったといえる。阿部日顕の宗内基盤は、よりいっそう強固なものとなった。


●阿部日顕に相承がなかったことをさらに強調

【昭和五十八年】

昭和五十八年二月、山崎は以下の【資料三十五】の文においても、阿部日顕に相承がなかったと、詳細な経緯を綴っている。もし山崎が「真実」を書く人間であるならば、ここまで詳細に書き込んだ以下の「真実」は、決して覆すことのできないものである。

山崎は細井管長が逝去した昭和五十四年七月二十二日の朝の様子を書いているが、以下の文脈をみると、細井管長は自分の娘婿である大宣寺住職・菅野慈雲に法主の座を相承しようとしたことになる。

以下の文のみにこだわらないとしても、今まで山崎が書いてきた文や話からすれば、細井管長は亡くなった七月二十二日に、菅野もしくは御仲居の妙泉坊住職・光久諦顕に相承しようとしていたことはまぎれもない。

ここまで公にした「真実」を、かんたんに覆してしまう山崎も山崎であるが、この山崎に前言をひるがえさせ、みずからの相承を証明させようとする阿部日顕は、愚かとしかいいようがない。時に応じて器用に「真実」を書きかえる者に、法主≠ニしての正統性を証明してもらおうとしている阿部日顕は、「相承を受けていない」と自白しているに等しい。この愚行は、これまで幾度となく強調したことである。

そのような原点を思い起こしながら、いま阿部日顕の保証人となっている山崎が書いたことを読んでいきたい。


【資料三十五】『諸君!』昭和五十八年二月号

日達上人の阿部日顕に対する怒りが一番はげしかったのは、昭和五十四年七月十九日、丁度、御遷化になられる三日前でした。

この日、大石寺大講堂内で、日蓮正宗と創価学会の連絡会議が開かれました。その直前に、大奥対面所(法主が僧侶や信者と会われる場所)で、日達上人は、阿部日顕を面罵されています。
「お前は、それでも日蓮正宗の僧侶か。もう愛想がつきた!」

その直後に日達上人は病いに倒れ、病院に入られて不帰の客となられましたが、病院での三日間、私は、お側につきっ切りでした。 〈中略〉

猊下「阿部は、学会には何も云えないんだ。よほど弱味をにぎられているんだな、あいつは。何をにぎられているか、あんたは知らないのか」

山崎「一寸、わかりません」

猊下「総監をやらせてみて、うまくやれば次をと思ったが、これじゃどうもならん。私も、どうやら当分入院しなくてはならんようだし……。困ったことだ」

こうしたことについての会話は何度かありました。いずれ法廷で明らかにするときがくるでしょう。

亡くなられる前夜、日達上人は、翌日、東京の病院へ移ることをすすめる私に対して、次のようにいわれました。
「相当長くなるだろうなあ。そうであれば一度山へかえって、大事のことをしておかなくては。とにかく、明日だけは山へかえる。(側にいた僧侶に)対面所に布団をひいておいてくれ!慈雲はいるか!(菅野慈雲師に向って)今日は、東京へ帰るのか。明日一番で必ずこいよ。(私に向って)することをすませて、半年でも一年でも、ゆっくり養生しますよ、今度は。夏にアメリカヘ行けなくて残念だなあ(アメリカ日蓮正宗の発足式などに行かれる予定でした)、慈雲がかわりに全部やれよ」

私には、日達上人の言葉の重大性が、このときわかりませんでした。あとできけば、お大事≠ニいえば、御相伝≠フことを指すとのことでした。

その夜、私が富士宮をはなれたわずか五時間ばかりの間に、日達上人は急に亡くなられました。


以上の『諸君!』の記事に明らかなように、昭和五十四年七月二十一日の夜、すなわち細井管長の亡くなる前夜、細井管長は翌朝、大奥において「大事のことをしておかなくては」と言って布団を敷いておくよう命じた。その際、菅野慈雲にかならず大奥に来るよう細井管長が話したと山崎は書いている。

これと同趣旨のことを正信会の会合でも述べている。以下、山崎の発言を引用する。


【資料三十六】『広布の道』昭和五十八年九月号

昭和五十八年七月二十四日、四国正信連合会第二回総会

私は宗門と学会の連絡会議の席から、その後もずっと亡くなられる直前までお傍におりました。病院に居りました。最初入院なさった時に今日の連絡会議はどうだった。ちゃんと阿部が学会に云うべき事は云ったか。こういう問題はどうだ。ああいう問題はどうだ。非常に厳しく聞かれました。阿部師は何も遣らなかったわけでありますけれども、それに対して非常に嘆かれまして、もうあいつは本当に駄目だ、考えなければいかん。云うふうにおっしゃっておりました。病院で色々検査をされて、どうもこれは容易ならぬ病状だと東京の大きな病院で徹底的に検査をし、治療する必要がある。そういう結論が出まして、その事を日達上人に申し上げた。日達上人はどの位い掛りそうだ。三ケ月や半年の事ではないと思いますと。そうだろうなと、入院するのは止む得ない。しかしそういう長期に渡る入院と云う事であればどうしても遣っておかなければならん事がある。明日は本山・山に帰る。大事の事を済ましておいて、それから心置きなく治療に専念しようと、こういうふうにおっしゃっておりました〈中略〉明日こいよ。お前必ずこいよ。明日こうだ、と何人かの御僧侶にお話なされておりました。その中に阿部師の名前は出ておりませんでした。阿部師の名前も早瀬日慈師の名前も出ておりませんでした。


ここで山崎は、細井管長が、「明日こいよ。お前必ずこいよ」と言ったと述べている。前夜、細井管長のそばにいたのは、この証言をしている山崎と菅野、光久、そして美佐子夫人であった。

このように細井管長が、「明日こいよ。お前必ずこいよ」と言ったとすると、大奥に来るよう呼ばれたのは、菅野と光久の二名である。これは伝法寺住職・浜中が山崎から電話で聞いた内容と同じである。さらにこの正信会の会合で、山崎が、「その中に阿部師の名前は出ておりませんでした」と明言していることは注目に値する。

●浜中和道への偽証依頼

さて、話は変わるが、昭和五十八年秋、山崎は正信会の伝法寺住職・浜中和道に対し、恐喝事件の公判において自分に有利な偽証をしてもらいたいと頼んでいる。そのため山崎は、伝法寺のある大分県竹田市を訪ねた。このとき山崎は、浜中に裁判で証言をしてもらいたい内容を記した、二、三枚の書類を渡している。この書類は、山崎が浜中に偽証を教唆したものである。

この書類の中で山崎は、昭和五十三年一月十九日に浜中を通して細井管長に渡した「ある信者からの手紙」を、山崎ではなく浜中が書いたものとして証言してくれと頼んだ。しかし、浜中はすでに警視庁や検察庁で真実を述べた後であった。

浜中は警視庁や検察庁に呼ばれたおり、細井管長に渡したこの「ある信者からの手紙」の作者が、山崎であることを述べていた。
「ある信者からの手紙」は昭和五十三年一月十八日に山崎から浜中に渡され、当時、お仲居であった光久諦顕の妻が清書したものを、翌十九日に浜中が細井管長に手渡し、細井管長がそれを正信覚醒運動≠フ活動家らが集まっている場で読み上げさせた、という経緯がある。

この謀略文書により、正信覚醒運動≠ヘ反創価学会意識をさらに高めた。いうならば、この「ある信者からの手紙」は、山崎が創価学会顧問弁護士として宗門問題に関わるなかで、マッチポンプをした決定的な物証といえるものである。

それゆえ、恐喝事件において刑事被告人として裁きの場に立っている山崎にとってなんとしても否定しとおしたいものであった。山崎が、創価学会にとって決定的に重要な宗門問題をネタに恐喝していたことが裏づけられてしまうからである。

そのため山崎は、浜中に対して強引なやり方で偽証を教唆したが、浜中はそれをことわる。浜中はすでに警視庁および東京検察庁での取調べにおいて、「ある信者からの手紙」の作者が山崎であることを供述していたのであった。しかし、その事実が法廷で露見することは、山崎にとっては有罪無罪を左右しかねないことである。

山崎はまず、先に浜中に渡した二、三枚の書類の中で、事実に相違するけれども「ある信者からの手紙」に関するもの以外のことについて山崎の意に沿って証言してくれるように求めた。「ある信者からの手紙」以外のものも事実に反する部分が多々あったが、浜中はやむなく承諾の返事をする。浜中にしてみれば刑事や検事の前で認めた「ある信者からの手紙」の部分についての偽証だけは避けたかったのである。

そのためにその余の部分の偽証を承諾したのだが、それが裏目に出る。山崎のやり口にひっかかってしまったのである。

まず、重要な部分の強要は避け、相手の認めやすいところを呑ませる。その後、本人が本当は拒否したい部分をも認めさせる。

山崎がいつも口グセのように言っていた「まず外堀を埋める」というやり方である。事実、浜中もその手にかかり、「ある信者からの手紙」について、偽証をさせられる。

浜中は昭和五十八年十一月十八日、東京地裁において、刑事被告人山崎側の証人として出廷する。浜中は山崎の言うとおり偽証する。だが、浜中の証言は刑事の取り調べに際しての浜中自身の員面調書、検事の取り調べに際しての浜中自身の検面調書に反することであった。偽証の余地はもとよりなかったのだった。浜中は法廷で立ち往生することになる。

この、山崎が偽証を教唆した事情は『浜中和道回想録』に詳述されている。浜中以外にも山崎側の証人でその虚偽をつかれ、立ち往生した者はたくさんいた。山崎自身も法廷における供述において種々の矛盾点をつかれ、虚偽の主張をしていることが誰の目にも明らかとなった。

こうした偽証の教唆、証拠の偽造をおこなった山崎は、その後、昭和六十年三月二十九日、東京地裁において懲役三年の実刑判決を受ける。山崎はその判決文の中で、裁判長に以下のように糾弾される。
「被告人の供述は、信用することができない」
「それと相反する被告人及び証人坂本の前記各供述は信用できない」
「被告人自身の捜査段階における供述と対比しても、被告人の前記公判供述は信用できない」
「被告人の供述は、他の証拠と対比すると信用することができない」
「この点に関する被告人の供述は、信用できない」
「はなはだしく不自然であると考えざるを得ない」
「事実と明らかに矛盾するため、これを糊塗すべく、虚構の事実を述べているものと認められる」
「被告人の供述は、今井及び中西の各証言並びに北條調書と全く相反するものである上、当時の客観的状況にも符合しない」
「根本的に当時の客観的状況とそごしており、信用し難い」
「被告人の前記公判供述は、これら検面調書等と対比しても、信用し難い」
「これに反する被告人の供述は、信用できない」
「虚偽の弁解を作出したものと認められる」
「この点に関する被告人の供述は、はなはだ不自然であってとうてい信用できない」
「強引に自分の主張に結びつけて、事実を虚構したものと認められる」
「多大の疑問を抱かざるを得ず、この点においても、被告人の主張は不自然と言わざるを得ない」
「偶々手許にあった証拠物を利用して虚構の弁解を作出している上、被告人の供述には全く虚構と認められるところが多い」
「被告人の供述は容易に信用することができない」
「被告人の供述は、不自然というほかはなく、前記証拠と対比すると信用できない」
「被告人の供述に右のような矛盾が生ずるのは、その供述が虚構を重ねたものであることに起因すると認められる」


●宗門暗部で蠢動していた山崎

阿部日顕は、次に紹介する【資料三十七】において、山崎の恐喝の原因が宗門問題にあったことを述べている。そして山崎の野心について、
「今は、その表面上は恐喝容疑でありますから、新聞等においても、多少は宗門問題ということが出ておりますが、詳しくは触れておりません。しかし、山崎正友という男が宗門の内部に食い込んできて、要するに自分が中心人物になり、その上から、あらゆることを自分の裁量で、宗門をも牛耳り、創価学会をも牛耳り、一切を自分の手に収めて、しかもやりたいことをやり、しかもそれが欲望にかられた、汚らわしい欲望そのものの人間が、智慧だけでもってそういうことをしようとしていた姿が、実はまだその奥に深く潜んでおるのであります」

と総括している。まさにこの日顕の言っていることは、山崎の恐喝事件の眼目である。そのことに留意しながら、以下の【資料三十七】を読んでもらいたい。


【資料三十七】昭和六十年三月三十日「非教師指導会」(『大日蓮』昭和六十年五月号)

先般は、新聞等で君達も承知であろうと思いますが、元創価学会員で、一時は学会の大幹部の立場にあり、しかもまた、顧問弁護士としてやっておった山崎正友という男が、創価学会から恐喝の容疑で訴えられて、その第一審の判決が下りました。いわゆる懲役三年という判決であります。

もちろん、彼はこれを不服として直ちに控訴するというように言っておるらしいのですが、やはり裁判長ともなれば、それはけっして、一日蓮正宗とか、あるいは創価学会というような立場に、よい意味での色眼鏡をかけて、それらを護ろうというような意味から公正を欠くような裁判をするということは絶対にあり得ないのであります。したがって今回の結果は、やはり色々な点を調べて、その意味があくまで山崎正友が恐喝をしたというような、はっきりとした、具体的な内容・事実ともにそれがあったということを示しておるのであります。

もちろんこれは、単なる創価学会に対する恐喝容疑であり、彼の経営していた「シーホース」とかいう会社の資金繰りのための恐喝ならびに恐喝未遂であったらしいのですが、しかし山崎の行為の基本はやはり、当時から色々と、当時の問題としての宗門問題――宗門と創価学会との色々な問題に、非常に深くかかわっておるのであります。

しかし、今は、その表面上は恐喝容疑でありますから、新聞等においても、多少は宗門問題ということが出ておりますが、詳しくは触れておりません。しかし、山崎正友という男が宗門の内部に食い込んできて、要するに自分が中心人物になり、その上から、あらゆることを自分の裁量で、宗門をも牛耳り、創価学会をも牛耳り、一切を自分の手に収めて、しかもやりたいことをやり、しかもそれが欲望にかられた、汚らわしい欲望そのものの人間が、智慧だけでもってそういうことをしようとしていた姿が、実はまだその奧に深く潜んでおるのであります。この山崎正友の行ったすべての考え方なり、その行為・行動というものは、仏様の眼から見るならば絶対に許されるべきでない、もっと大きな罪が――地獄へ何回堕ちても足りないほどの罪が存するのであります。

しかし、今回のことは世法の問題で、特にただ表面上の創価学会に対する恐喝ということだけでありますから、その点がはっきりしておらない意味がありますけれども、もちろんそれは仏法者の眼から見なければそういう本当の意味は解らないのであります。

私は登座以来、特に昭和五十四年の九月に、山崎正友が実にインチキ極まる悪辣な策略家であるということを見抜いて「あなたは大嘘つきである」ということをはっきりと言いました。それから、特に私に対して色々と策を講じ、罠をかけてきたことが全部だめになったために、今度は正面きって、私などに対して実に有ること、無いこと――というよりも、むしろ無いことばかりを主体にして悪口を言い、週刊誌に様々なことを書かせ、そして、しかもそのなかからさらにまた、活動家と称する馬鹿な僧侶どもを煽り立てて、そして宗門と学会の争いをさらに助長させ――もちろん、それ以上に宗門をも覆滅して、自分勝手に宗門を操ろうとしたのであります。

ですから私は、その有様をじっと見ておりながら、当時の活動家と称する僧侶の者どもに何回も注意したのであります。「こういう者が、色々な情報を流し、君達の学会を正しくしようという考え方に便乗して、実に間違った行為を犯しておるのであるから、そういう者の言うことにうっかり乗ったならば大変なことになる」ということを私は二回、三回にわたって注意しました。しかし、彼らは無我夢中になっておりまして、少しもその前後、左右を正しく見極める考えもなく、まして、私が自ら何回にわたっても注意したことすら、深く考える余裕もなく――それはまあ謗法の気持ちが充満していたためでありますが、そのためにとうとう突っ走ってしまって、最後は宗門から処断を受け、僧籍を剥奪されるということになっております。今日、遺憾ながらそういう者が百八十数名おるのであります。まあ当分、これらの者は、その心がらからも正しい立場で救われることはないでありましょう。これはまあ、一つのやむを得ない姿ではありますが、宗門広宣流布の急激な発展に伴い、信徒の増加に伴う様々な在り方であったと思うのであります。

それが、一部分の形だけを見て「これがよい」とか「あれがよい」とかということは言えないのです。もっと大きく、全体の姿を見つつ、その根本は大聖人様の正法・三大秘法を広宣流布していくというところの在り方に存するのであり、それは今日以降の姿にも関連があるわけであります。そこに我々は、さらに慎重に、また自らの信心修行によるところの深い洞察力をもって、正しくこの問題を見、今後の資糧としなければならないと思うのであります。

こういうことは前からもよく、このような集まりのときに、当時は当時なりに、所化達までも紛動される情況が相当多かったために、私は常に言ってきましたが、最近はあまり言わなくなりました。けれども、先般の山崎正友という悪徳弁護士の第一審の判決において懲役三年という実刑が確定したということに関連して、まず最初に触れた次第であります。


これは阿部日顕が「非教師指導会」において語ったことである。山崎が宗門の中枢をにぎり、宗門と創価学会を牛耳ろうとした野心家であることを述べ、それに煽られた正信会の者たち百八十数名が阿部日顕により「僧籍を剥奪」されたのだと述べている。阿部日顕はこのように述べていながら山崎にみずからが謝罪し、自分の味方になってくれるよう頼むのである。

その間、わずかに六年。人間はここまで変節することができるものだろうか。

さて、裁判所で初犯でありながら執行猶予なしの懲役三年の実刑判決を受けた山崎は、それでも暗躍を続けた。以下に紹介する『浜中和道回想録』にはとてつもない山崎の工作の内容が記されている。山崎の動きは唐突なように見えるが、宗門のヌエ的体質の中に生きる者たちのいずれかと連動しながらなされていたものと思われる。この工作は山崎の単独の工作とは思えない。


【資料三十八】『浜中和道回想録』
〈昭和六十年十月の描写〉

昭和六十年十月、山崎氏から電話がかかってきた。
「和道さん、大事な話があるんだけど、今度、東京に出てきてくれないかな。ホントに大事な話なんだよ。正信会の今後にかかわるからね」

受話器から流れる山崎氏の声は、興奮気味であった。
「阿部さんがね、『正信会を許したい』って言ってるんだよ。猊下がね」
〈中略〉
「でも、なんで阿部さんは、そういう気になったの?」
「阿部さんはね、池田に辟易してるんだよ。頭を押さえつけられてね。自民党の安部晋太郎なんかにも、なにかの席で会った時に、『あんたと池田とどっちが偉いの?』なんて皮肉られて、カリカリ頭にきてるんだよ。といって今の宗門の坊主連中は、学会と戦う気なんか毛頭ないしね。全然、頼りにならないでしょう。『金がありゃ、幸せだ』って坊主ばかりでしょう。それで正信会に帰ってきてもらって、池田の鼻を明かして池田をガツンとやりたいんだよ」

山崎氏の話に私はムカッときた。
「それじゃ、正信会は阿部さんの番犬になるために本山に帰るんじゃないの。ダメだよ、それじゃ」
「だから言ってるでしょう。帰ってしまえば、こっちのものだって。阿部さんはね、『いつまで池田は保護者ぶってるんだ。俺は小僧じゃない』って、ホントに池田に頭にきてるんだよ。僕が今まで苦労して情報を入れて、やっと乳離れさせたんだよ。そして正信会のことを阿部さんにさんざん吹き込んできたんだよ。だから阿部さんも、『絶対に正信会を疎略にしない』って約束してるんだからさ。『今まで苦労させて、正信会に悪かった』って頭を下げてるんだから、チャンスじゃないの。今の宗務院の連中を追放しても、皆さんを迎え入れるよ。僕はそこまで根回ししてるんだから。僕を信用してよ」

私は、
「それも、そうだ」

と思った。
「それじゃ、原田さんに話してみるよ」
「よろしくお願いしますよ。夜には部屋に帰ってるから、原田さんと連絡がついたら、夜、電話ください」
〈中略〉

私は原田師(筆者註 東京・善福寺住職の原田知道)、山崎氏と電話で連絡を取り、数日してから上京し、東京の新宿で落ち合うことにした。

新宿の喫茶店で、山崎氏は原田師と私に、阿部師の学会・池田氏への不満や正信会への期待を話した。先に私に電話で話した時よりも、山崎氏の話は説得力があった。ただ直接、阿部師から依頼されたのかどうかについては、山崎氏は明言を避けた。それはどっちともとれる言い回しであった。原田師が山崎氏に、
「それはなにかい、山崎さん、あんたが直に阿部さんに言われたんかい?」

と訊くと、山崎氏は、
「ええ、まあ」

と言葉を濁し、
「具体的には今、話せないんですよ。いずれ時が来たら、すべてをお話ししますが、今のところ、隠すつもりはないんですが、これ以上、お話しできないんです。ともかく正信会の議長さんたちが阿部さんと会うことが先決問題です」

と答えた。原田師も私もそれ以上、突っ込んで訊くことが憚られるような山崎氏の言い方であった。 〈中略〉

伝法寺には、山崎氏から成り行きを聞く電話が、すでに何回かかかってきていたようであった。私が庫裡に入ると、ひと息つく暇もなく電話のベルが鳴った。山崎氏からであった。私が渡辺師(筆者註 兵庫・堅持院主管の渡辺広済)と梁瀬師(筆者註 大阪・広宣寺住職の梁瀬明道)の話を詳しく話すと、山崎氏は、
「チェッ、残念だなあ。せっかくのチャンスだったのになあ、チッ、チッ」

それだけの感想をもらすと電話を切った。その後、山崎氏は二度とその話を持ち出さなかった。


このように、山崎は宗門の暗部で蠢動していたのだ。その一方で、山崎はマージャンに明け暮れ、夫ある正信会の女性信者から、山崎が認めただけで二千万円に及ぼうとする金を「カンパ」させていた。


●「C作戦」の画策

さて、昭和六十年から平成二年までの山崎の足跡は、マージャン漬けの生活や不倫などでしか確認できないが、阿部日顕ら宗門中枢に対してなんらかの操作をおこなってきたことは疑いがない。

阿部日顕ら日蓮正宗中枢は、平成二年七月十六日、東京都文京区西片において、また同月十八日、大石寺大書院において謀議をした。その内容は「C作戦」(創価学会分離作戦)という創価学会攻撃の奇襲作戦で、それにより池田名誉会長を処分し、創価学会が動揺している間に創価学会の組織を切り崩そうとするものであった。

結局、大書院における会議において、当時、札幌の日正寺住職であった河辺慈篤が、「『C作戦』を実行するのであれば、創価学会から末寺住職がスキャンダル攻撃などを受ける」と主張したことにより、「C作戦」を実行する前に、まず宗門僧侶の綱紀自粛が先である、という結論になった。

これを受け、平成二年八月三十日の全国教師指導会において、綱紀自粛が徹底された。そして頃あいをみて、池田名誉会長の発言に言いがかりをつけることになったのである。

日蓮正宗は創価学会に対し、同年十二月十三日の連絡会議の席上、「宗務院より創価学会宛の第35回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね」(通称「お尋ね」)という文書を日蓮正宗宗務院の名で手渡そうとしたが、創価学会側に「出所不明のテープを元にして作成した文書は受け取れない」と受領を拒否された。そこで日蓮正宗側は同月十六日、創価学会宛にそれを郵送してきた。

この「お尋ね」文書は、池田名誉会長の発言を聞き違えるなどの稚拙なミスを犯していたが、阿部日顕ら日蓮正宗中枢は、「C作戦」という謀略を中止する冷静さをもはや失っていた。

十二月二十七日、日蓮正宗の宗会が開かれ、そこで宗規改正にかこつけ、宗門に対する長年の大功労者である池田名誉会長を、実質的に総講頭職罷免の処分とした。

このとき阿部日顕が頼りにしたのが、みずからの法主の相承について「虚偽である」と一貫して主張していた山崎であった。阿部日顕は山崎に謝罪をし、創価学会攻撃に手を貸してくれるよう、さらに相承も認めてくれるよう頼んでいる。このことをもって、阿部日顕の相承がまったく根拠のないものであったことがわかる。阿部日顕は、みずからを長年にわたって「ニセ法主」と罵ってきた山崎の靴底をなめたのである。

平成三年一月五日、日蓮正宗海外部書記(当時)である福田毅道が、山崎の部下である梅沢十四夫に対し働きかけをおこなった事実が、露見している。


【資料三十九】『新雑誌21』平成三年八月号
「当時海外部書記の福田毅道さん、この人と約二時間話したんです。その時に、『梅沢さんは山崎正友さんに連絡はとれますか』というもんですから、とろうと思えばとれますと言いましたら、その時に『では山崎正友さんに猊下さんからのおことづけをお願いしたいんだ』というわけです。『これから言うことをそのまま伝えていただきたい、『あの時はウソつきと言って悪かった。かんべんして下さい。』このように伝えて下さい。梅沢さんは意味が分らなくてもいいんだ。こういう風に言えば山崎正友さんは理解できるはずです。ただしこのことは絶対に口外しないでいただきたい。私と梅沢さんの間だけにして絶対マスコミには特に言わないで頂きたい』ということでした。それで帰ってきまして、たしか六日の日に山崎正友さんに連絡をとりました。実はこれこれこういうわけでもって、その旨を伝えた。

山崎さんはいわゆるかつての上司ですから、私のことを梅沢さんといったことは一度もない。それが『梅沢さんそれは本当かね。本当ですか』と、ていねいな言葉で二度も言った、『わかった、どうもありがとう』と、はじめて、あの人がなんていうんですか部下に対する言葉でなくて、『ありがとう』と二度も言った。『意味は分りますね』このことづけをしたのはかつて大宣寺でもって一緒に机を並べた福田毅道さんという人です、福田毅道先生の電話番号を教えますからと言って教えてあげたといういきさつがあるんです。


阿部日顕から、福田毅道、梅沢十四夫を経由して山崎に伝えられた、「あの時はウソつきと言って悪かった。かんべんして下さい」との伝言が意味するところは、あまりに明白である。つまり昭和五十四年九月、登座まもない阿部日顕が山崎に対し、「あなたは大嘘つきである」と言ったことについて謝罪しているのである。

この後、「C作戦」を草案段階でワープロ打ちした福田毅道が、阿部日顕の意を体して山崎に会った模様。山崎は収監直前、浜中和道に対し、入獄中になんらかの必要が生じた場合の連絡役の一人として福田毅道の電話番号を教えている。

阿部日顕は自分の意思として、山崎に謝罪するほうが得策であると考えたのであろうが、そうした判断をくだすための操作情報を、山崎は流しつづけていたのである。このことは山崎自身の口から語られている。


●山崎と日顕の取引

平成三年二月二十五日、山崎は最高裁の上告棄却の判決を受けて収監され、懲役三年の刑に服することになっていた。シャバとのお別れが近づいてきていた。

二月二十一日から二十二日にかけて、山崎は多額の金を「カンパ」させていた鈴木陽子と、東京・赤坂プリンスホテルで最後の逢瀬を楽しんだ。山崎はこのとき、次のように陽子に話した。


【資料四十】大分地裁での貸金訴訟に提出された鈴木陽子の「上申書2」
〈平成三年二月二十一日の描写〉

宗門と学会との間がおかしくなるように、いままで仕掛けてきた。自分が刑務所に入っている間、双方が喧嘩するようになっている。刑務所から出てきた時が楽しみだ。阿部さんとはいつでもフリーパスで会える。


鈴木陽子との逢瀬を終え、翌二十二日の昼、山崎は赤坂プリンスホテルから出て、道路を一つ隔てたホテルニューオータニにあらわれた。そこで会ったのが、伝法寺住職・浜中和道である。先ほどまで会っていた鈴木は伝法寺の檀徒である。しかし、浜中も鈴木もお互いがそこまで近くにいることを知らない。山崎にはこのように、思いもつかない形で人を操り、愉悦を感じる習癖がある。

ホテルニューオータニで山崎は、浜中に次のように話したという。


【資料四十一】『浜中和道回想録』
〈平成三年二月二十二日の描写〉
「これは和道さんだから言うけどね。実はね、僕は阿部さんの血脈相承を認めちゃったんだよ」

山崎氏は唐突に話を切り出した。私が、
「えっ?」

と訊き直すと、山崎氏は私を正面に見据えて、
「だからね。僕は学会を倒すために、阿部の懐に飛び込んだんだよ。そうしたからこそ、今、学会と宗門が喧嘩別れしたんだよ。わかるでしょう?」

と言った。私は首を縦に振った。
「勿論、僕は今度、原田さんにお世話になるから、善福寺の信者だよ。正信会だよ。でも正信会の信者であっても、日蓮正宗の信者には変わりないでしょう。その日蓮正宗の敵の学会を倒すために、今は阿部さんの猊座の権威が必要なんだよ。僕は、正信会はどんなことがあっても宗門に復帰すべきだと思うんですよ。このままじゃ、立ち腐れだもんね。それで正信会のために、共通の敵の学会と戦うために、阿部さんと連携したんだよ。そしたら阿部さんは素直に『俺が悪かった。池田に騙されていた』って、僕に謝って、『正信会に悪いことをした』って言ってきたんですよ。だから僕も阿部さんを許す気になったんですよ。そしたらね、阿部さんから、『頼むから、俺に血脈相承があったってことを認めてくれ』って言ってきたんだよ」

私は口をはさんだ。
「だって阿部さんに相承がないのは事実じゃない」

山崎氏は手を振りながら言葉を続けた。
「それはそうかも知れないけどさ。相承があってもなくっても、もう猊下としての既成事実が出来上がってるんだから、しょうがないじゃない。今、それを論じるんじゃなくて、どうすれば池田を潰せるかってことを考えるのが先でしょう。僕の役目はそれであって、あとは正信会の皆さんが宗門に復帰してから、宗内の問題として整理すればいいでしょう。僕は僕の役目、皆さんは皆さんの役目を果たしましょうよ」

私はまた、首を縦に振った。私の正直な感想を言えば、今さら山崎氏が日達上人から阿部師へ血脈相承があったことを認めようが認めまいが、どちらでもいいことであった。阿部宗門が既成事実として阿部師を猊下としているならば、正信会は正信会で阿部師を偽法主≠ニする既成事実が出来上がっていた。だが刑務所入りを前に、自分が阿部師の相承を認めることが阿部宗門の正当か否かを決すると思っている山崎氏に、それを言うのは酷であった。 〈中略〉

山崎氏は話し終わると、さっき取り出した二通の白い封筒の一つを手に持つと、
「これはね、万が一、僕が刑務所に入っている間にね、もし僕の許可なく勝手に阿部さんが、『山崎が、自分に血脈相承があったことを認めた』って言い出した時に、これを開いてオープンにしてください。僕が刑務所に入っている時に、そのことを許可する場合は、必ず何らかの方法で和道さんに連絡しますから」

と言うと、もう一通のほうを手に持った。
「そして、これは僕が刑務所に入っている間に正信会に宗門復帰の呼びかけがあった時に開封して、みんなに見せてください。こっちには丸印しておきますから。絶対、間違わないでよ。間違ったら、大変なことになるからね。もし片方を開けるようなことがあったら、片方を焼いてください。それで僕が出るまでなにもなかったら、両方とも僕に返すか、燃やしてください。これは和道さんを信用してるからこそ頼むんですよ。どうかくれぐれも、今、言ったことを忘れないでね」

山崎氏はそう言うと、私の返事を聞かずに、二通を重ねて私の膝の上に置いた。


以上の浜中証言は、阿部日顕の側から、「頼むから、俺に血脈相承があったってことを認めてくれ」と言ってきたことを前提に、山崎と阿部日顕との間に取引があったことを示す。しかもこれから刑務所に入る山崎は、阿部日顕が今後とる態度に一抹の不安をもっており、二通の手紙を渡したという。
「僕の許可なく勝手に阿部さんが、『山崎が、自分に血脈相承があったことを認めた』って言い出した時」に開封する手紙と、「刑務所に入っている間に正信会に宗門復帰の呼びかけがあった時」に開封する手紙の二様のものがあったということは、収監される山崎が出獄後に正信会復帰≠ニ相承問題≠、阿部日顕との取引のカードとして温存しておこうとしていたことを示す。

収監前に、出獄後の食い扶持のネタを仕込むところは、山崎らしい。正信会と相承の問題は、山崎にとっての飯のタネとして何ものにもかえがたいものだったのだ。

このようにみれば、山崎の相承に対する保証というものが、状況によって変わるものにすぎないことがわかる。山崎のいう阿部日顕の相承に関する発言は、まったく信用するに足りない。


●なんとしても相承を認めさせたい日顕

山崎は収監前日の平成三年二月二十四日にあっても、勝ち誇り、気分は高揚したままであった。その日、山崎はかつて部下であった梅沢十四夫に次のように話していた。


【資料四十二】北林芳典著『暁闇』(平成十四年十一月十七日発行)
「山の方針は決まってるし。ねっ、近いうちに大きな処分がどんどん出るだろうし」
「収監されることなんかどうでもないっつうの。そんなことは、もう、とっくの昔から計算済みだって。折込済みで、しかも、それをちゃんと、それもね、利用して、俺は戦略立ててんだから。中に入ってるあいだに、何が起こったって、オレの責任じゃねーんだよ。中に入ってるあいだにね、どんな事件が起ころうと、わしゃ、関係ねーってことでしょう」
「とことんまで日顕さんがやっつけるよ」
「もう、終わったの。戦争はもう、終わったの。少し療養しなきゃダメなのよ。刑務所の中の病院が一番いいのよ、うるさくなくて。もう、療養することだけが俺の仕事だから。もう、終わったのよ。結果が出る頃には、戦争はもうね、結果が出る何カ月も前に、もう、全部、終わっちゃうの。黙って見てりゃいいのよ」


山崎は二月二十五日、収監される。

仮出獄してきたのは、平成五年四月二十七日のことであった。山崎はその刑期のほとんどを、栃木県・黒羽刑務所で送った。

出獄した山崎は、その日、浜中に連絡を取り、型どおりの挨拶をしている。それからしばらくした後、正信会の大石寺への帰山条件として、阿部日顕の相承を認めるよう、浜中に電話で要請している。


【資料四十三】『浜中和道回想録』
〈平成五年四月の描写〉
「和道さん、どう思う?正信会が本山に帰る条件としてはね、猊下が血脈相承の事実をはっきりさせる。正信会が納得いくようにね。そして非公式でもいいから、今までのことを宗門として詫びる。それが一つ。そして帰りたい者は帰山させる。これが一つ。そのうえで帰りたくない者は、もう寺をくれてやる。こういう条件だったら正信会は宗門と話し合うと思う?」

山崎氏はこう私に尋ねてきた。私が、
「それだったら、いいんじゃない」

と答えると、
「どう思う?僕は宗門にどんなことがあっても帰りたいのが三分の一、逆にどんなことがあっても帰りたくない奴が三分の一、これは前にある正信会の坊主に会った時、『今が一番いいや。昔はなにかあると本山に行かなきゃならなかったし、学会にはイチャモンつけられたし、宗務院からは監視されるし、それに比べたら今は自由でなんでも言えるし、なにしてもいいからこんな幸せはない』なんて言ってた坊主がいたからね。そういう奴が三分の一と、どっちでもいいから勢力の強いほうについていくというのが三分の一、僕はこう見てるけど、どうかな?」

と質問した。私が、
「そんなもんだろうね」

と言うと、
「ありがとう」

と礼を言って、山崎氏は電話を切った。


出獄した山崎は、入獄前に考えていたシナリオにそって動く。山崎にとって正信会問題は、阿部日顕との交渉に際して利用できる大きなカードであった。山崎は、すべてが自分のペースで動くように考えている。

正信会の者たちには、復帰の際、身分を保障する。当然、過去における擯斥処分の撤回は阿部日顕によってなされる。そして正信会の者たちの処分を解いたことと引き換えに自分の相承を認めてもらう。山崎が正信会の浜中和道に提示した交渉条件はこんなところであった。この経過を見ても、阿部日顕に細井管長より相承がなかったことがわかる。

阿部日顕が事実として相承を受けていたならば、宗教上崇高な事柄につき、余人が口をはさむことを許す必要はない。また、誰かが口をはさんできても、それを気にすることはない。

ところが阿部日顕は、みずからの相承を否定してきた山崎のみならず、正信会の者たちを宗門に復帰させてまでして相承を認めてもらおうとしている。仮出獄した山崎は、それが大きな取引条件になると読んでいたのである。

まず山崎は平成五年五月頃、阿部日顕に「密書@」を出している。「密書@」では、まず阿部日顕に媚びてみせ、正信会と日蓮正宗の間でおこなわれている訴訟の取り下げを提案している。

この文中、山崎が正信会の者たちのうち、日蓮正宗への復帰を望まない者については放置しようとすら言っているのは、実におもしろい。寺の何分の一かを手放したとしても、阿部日顕は自分の相承を認めてほしいのだ、と山崎が見透かしているからである。


【資料四十四】山崎正友から日顕に宛てた「密書@」(平成五年五月頃)

今日の状況を見るとき、入獄前との様変りの大きさに、今更目を見張る思いです。これひとえに御法主上人猊下の御力によるものであり、信者の一人として、感慨を深くする者であります。御法上人(ママ)猊下の御慈悲により、富士の清流がたもたれたことを、後世の僧俗方は、感謝されることでありましょう。

この間の、御法主上人の御苦労、御心労は、さぞかし大変なものであったことと、心よりお察し申し上げます。創価学会の卑劣さ低劣さ、そして、一度かゝわり合うと、表現のしようがない、あと味の悪さを残すいやらしさ等々、人格高潔な方ほど、苦痛を味わ(ママ)されるものです。御法主上人猊下も、幾度となく、これほどひどいものだったのか、との思いをされたことでありましょう。程度の差こそあれ、何百万、何千万という人達が、この団体のため、いやな思いをしてきているのであり、それが社会的な拒否反応となっているのです。こうした団体に被護(ママ)を与え、悪質なものを黙視して来た宗門の戦後史にも責任はありますが、それを、我身を切り開いてえぐり出す行為をあえて行われた勇気と決断はどれほど価値があったことか、正に後世の厂史(ママ)が示すことでありましょう。
〈中略〉

私は、日達上人は、どうしても創価学会を切れなかったと思います。自らの功を自ら否定することになったからです。日達上人は、現御法主上人のきびしさ、決断力に期待されそれを根性≠ニ称されたのです。池田大作以下創価学会首脳は、その根性≠見誤ったのでしょう。
〈中略〉
(筆者註 以下「正信会」の件)和解についての私の案は、第一に、双方同時に、無条件で訴訟の取下をします。ついで宗門は処分の取消を行います。それから、正信会寺院、僧侶に対し、単一・独立を希望するものは、そのようにしてあげます。復帰を望む寺院・僧侶については、その儀式を行って復帰を許していたゞきます。その際、後者には御法主上人から、しかるべきお言葉があり、復帰者側は、自ら尊い信仰上の使命を果たしたという自覚があるのなら、何の条件も文句もなくだまって礼をつくして復帰するべきでしょう。彼らに対する種々の配慮は、御法主上人のお心から与えられるべきもので、多くを和解の条件にするべきではないと考えています。

現状では、もはや正宗は、正信会の占有する寺院を必要とする状況になく、今後なお、文句を云うような人達は、宗内に居てもらうこと自体マイナスでしょうから、出ていってもらえばいいと思います。なお今後、御法主上人のもとで僧道にはげむ、という人達だけ帰ってくればよいのではないでしょうか。

これによって宗門は、大義名分をとりかえし、無駄な出費をなくし、学会批判のフリーハンドを得られます。

この先、時をすごせばすごすほど、とりかえしのつかぬ事実がつみ重なるだけです。時とすれば、今年中だけです。


●徐々に発言を変えはじめる山崎

山崎の「密書」は連発され、判明しているものだけでも五通ある。これらの「密書」で山崎は阿部日顕に頭を垂れながらも、軍師然と振る舞っている。以下、「密書A」を紹介するが、山崎はこの中で、それまで週刊誌などで書いてきた相承問題についての記述に関し、
「書いた内容は、調査で判明した亊実の四割にすぎません。のこりは、反論や、名誉毀損の訴えがあったときにそなえ、手の内にとっておいたのです」

と述べている。これを阿部日顕からみれば、あと六割、すなわちこれまでの一・五倍の調査内容が、阿部日顕の相承を否定する証拠物として温存されていることになる。山崎は阿部日顕に丁重な言葉を使いながらも、その実、脅しをかけているのだ。

そのうえで、正信会の中心メンバーである、小田原教会主管・佐々木秀明が、阿部日顕に相承がなかった証拠として、山崎が過去に書いた手記を裁判所に提出したことをもって、正信会にまつわる裁判の勝敗は、山崎の動向に帰するということを強調している。山崎は自分次第で相承がどうにでもなるぞ、裁判がどうにでもなるぞ、と阿部日顕にみずからを売り込んでいるのである。

山崎は細井管長が、
「昭和五四年春、だれを後継者にのぞんでおられたか、私は、直接存じておりました」

と述べ、みずからが当時を想起する中で、細井管長から阿部日顕への相承の存在証明ができる立場であることを強調している。

さらに山崎は、「密書@」で述べたのと同一の内容を述べている。正信会と宗門の双方で訴訟を取り下げ、本山に帰るものは帰り、そうでない者には、
「寺ごと単一独立を認めてやることです」

と進言している。山崎が日顕に送ったこの「密書A」を読んで、阿部日顕に相承があったと思う者は、一人としているまい。

山崎はおべっかを使ったあと、阿部日顕の相承問題≠ノ触れ、次のように述べている。


【資料四十五】山崎正友から日顕に宛てた「密書A」(平成五年六〜七月)

一、文春掲載の経緯について、

ともすれば、私が、まったく私の一存で週刊文春誌上で御相承問題にふれ、それが原因で正信会の動きがエスカレートしたかのような印象が一部に存在するかも知れません。しかし、それは亊実と異っております。

日達上人の急な御遷化という異例な亊態の中で、外部からは全くわからぬ形でお代替りが行われました。そして、それを境として、宗門の方針が百八十度変りました。その流れの中で、覚醒運動に対する弾圧があり、中心者の処分に至りました。このような経緯の中で、御法主上人猊下に対する不信をいだく僧も少なからず、又、重役会議の内容や、日達上人の身辺に近かった人達の話も次第にもれ伝わりました。それが疑念をあおることとなりました。覚醒運動の中心者の秘かな調査が始まり、私もこれにかゝわりました。

これら僧侶の中には、日達上人御遷化直前まで、直接お目どおりしていた人達も何人かおります。卆直(ママ)に申しまして、私も一時は不審の念をいだいておりました。当時、宗内で重要な立場にあられた身内や側近の方々が「相伝はなかった。しかし、そのことを云うと、日達上人の御遺徳をきづつけることになるし、相伝が絶えたことになってしまうから云わないんだ」といったような発言を、かなりされました。こうした調査は、かなり綿密に行われました。その上で、正信覚醒運動の中心者達は、弾圧に対抗するため、管長地位不存在の訴えを起こす他ないとの判断に立ち私に協力を求められたのです。そのため、私は、一度終らせた週刊文春の連載を再開することになったのです。

二、内容と諸状況の問題点

私は、その時の手記を最近何度も読み返しています。書いた内容は、調査で判明した亊実の四割にすぎません。のこりは、反論や、名誉毀損の訴えがあったときにそなえ、手の内にとっておいたのです。その後の正信会裁判で、もし、宗門側が相承問題の証言に入ったならば、これらの資料は証拠として提出されたでしょう。そして、私が書いた内容は、具体的な亊実であり、それらをつなぎ合わせてみれば、疑念が深まる、という書き方です。

ところで、正信会裁判で、佐々木秀明氏が証人として「相伝問題に疑問を感じたのは、私の手記を読んだからだ」と述べていますが、これは彼の失策であります。後に、私は、佐々木師を中心とする執行部と対立し、決裂寸前までまいりましたが、弁護団と、渡辺広済師らが必死で仲裁しましたので、表面上は仲直りしました。しかし、佐々木師らは、正信会内での実権を、それ以後失いました。弁護団や正信会の多数が私を慰留し、佐々木師らを排したのは、正に前記の証言の為です。私が相伝問題の手記内容を全面的に撤回したなら、正信会はたゞちにそのよって立つ基盤を失いかねない窮地に追いこまれること、そして、そのような亊態を招いたのは、佐々木師自身の軽卆(ママ)な証言であることを弁護団が指摘し、皆ががく然としたからです。私は、和解に応じるとともに、正信会内に、渡辺広済、近藤済道ラインの指導体制ができました。渡辺―近藤ラインの実質的な亊務局は、善福寺原田知道師であり、彼が、訴訟と継命などを統括しています。

私の書いた手記は、簡単に、抽象的な否定行為で消せるような内容のものではありません。仮に私がそれをすれば、正信会サイドから、私の裏切りに対する非難だけでなく、残りの六割の資料によるきびしい反論が行われるでしょう。内藤国夫や文春は、その際、正信会サイドの肩を持ち、宗門と学会の紛争は脇に追いやられ、御相承問題がむしかえされて、学会を利するだけの結果を招きかねません。

ちなみに、御相承問題についての調査資料は、山口法興師、原田知道師、そして毛利正顕師(毛利博道師の兄弟)が保管しています。幸いにして三人とも私と親しく、和解を願う気持で一致しています。しかし、私が独走すれば、自分自身をまもるため、敵味方にわかれることは当然です。

誤解のないよう、念のため申し添えますが現在の私は、御法主上人猊下の御確信にいささかの疑念をもいだいておりません。昭和五三年春、日達上人が御自身の健康をどれほど不安がっておられたか、又、昭和五四年春、だれを後継者にのぞんでおられたか、私は、直接存じておりましたし、それ故に、日達上人の御依頼により、当時の総監に、判断の誤りなきようお話申し上げるべく、常泉寺に伺ったりしたのです。又、私は、医師と日達上人の会話に常に立ち合っていましたから、日達上人が御自身の状態をよく知っておられ、従って万一の場合のそなえをなされていなかったとは絶対に思えません。

その上での認識でありますが、日淳上人がなされたような儀式が行われなかったことは否定のしようがありません。そして、日達上人からの指名は、一対一で行われ、そして、その亊実は、日達上人御遷化後の重役会議ではじめて確認された、ということであります。指名の日時、場所については、その後、明らかにされたのですが、その内容は(法門にわたることは別として)あいまいなままです。

三、対処の方法について、

こうした諸状況をふまえますと、私の手記の訂正は(当時は、今日のような亊態を予測することができず、従って容易に打ち破れぬように、そのことだけを考えて書きましたので)御法主上人猊下の密接なる御支援がまず必要であり、そして、そのための状況作りも必要であることがおわかりいたゞけるかと思います。

まず、正信会、宗門双方、現時点において訴訟をとり下げることです。正信会側は、復帰をのぞむ者は受け入れ、そうでない者は、寺ごと単一独立を認めてやることです。或いは、一率(ママ)に単一独立を認め、その上で、個々に復帰希望者と話合うのもよいでしょう。

次の段階で、宗門より、五五年の処置について一言言及なされ、同時に、改めて御相承の経過について公式に発表していたゞきます。

日時、場所、いきさつ、お言葉の内容、証人がいればその証言、そして重役会議の内容等です。

過去にも、御相承にかゝわる争いはなかったわけではありません。お大亊の中味についてはもちろん秘伝ですが、その経緯については、常に御宗門で明らかになされ、説明されています。それは、人間社会の常識であります。地位の主張は、主張する者によって立証されるべきものです。

発表の仕方、内容については、もちろん、私も充分協力させていたゞき、落し穴にはまらぬよう万全を期する必要があります。


山崎はこの「密書A」で書いたシナリオにのっとり、阿部日顕の相承に関するこれまでのみずからの言葉を、徐々にひるがえしはじめる。それは当然のことながら、阿部日顕に相承がある≠ニするプロセスにほかならない。


●アンチ創価学会なら、誰とでも手を組む

山崎は、表立っては次に紹介するような謙虚なことも書く。


【資料四十六】山崎正友著『懺悔の告発』(平成六年三月十五日発行)

昭和五十四年五月三日、池田大作が会長と総講頭を辞任することで和解が成立した時、日達上人は、当分は平和が続くと考えられた様子だった。夏には北米布教に行かれ、秋には、できたら引退して法主の座を後進に譲りたいと考えられていた。私にも、この件についていろいろ意見を求められた。

かつて、この間の事情の一部(あくまで一部である)を筆にしたこともあるが、しかし今ではよほどのことがない限り、本来、信者が相承のことなどに口を出すべきではないと反省しているし、今後もそういうことはないに越したことはないと思っている。


山崎はこのように、相承に触れること自体が信者の領分を超えたことであるかのように述べている。ところが、実際はその逆で、山崎自身が阿部日顕に相承問題について「密書」で得々と教示をしているのだからお笑いである。

山崎にしてみれば、宗教は金を儲ける手段でしかない。そのような不道徳さのゆえに堕落の道をたどり、転落し、投獄されたのに、いまだその本性は少しも変わっていないのである。山崎にとっては、宗教が正法正義を説くことなどどうでもよく、みずからがその正法正義を証明することにより、なにがしかのものを得るということが最大の関心事なのである。

平成六年当時、山崎が日蓮正宗同様に「帰依」していた新興宗教=国際正法協会会長の園頭広周は、山崎の病気を治した経過を述べたことがある。園頭によれば、山崎に「光」を入れることによってその病を治したと、平成六年七月七日に福岡でおこなわれた国際正法協会の婦人大会で、山崎を前にして次のように述べている。


【資料四十七】『宗教やくざ池田大作論』(平成六年八月三十一日刊)
〈平成六年七月七日の国際正法協会会長・園頭広周の話〉

山崎先生が人工透析しなければならないということになったのは、創価学会がいうように、学会をやめたために罰が当ったのではないのであります。私は山崎先生から「入院します」というFAXをもらった時、山崎先生の心を見て、「入院するほどに身体が弱くなられたその原因は何か」を探した。すぐその原因がわかったので、その原因を除くようFAXしました。

そうして五月一日、山崎先生を見舞いに行って光を入れました。そうしたら一週間目に「透析の必要なし」といわれて退院され、今日ここに来て下さったのであります。
「南無妙法蓮華経」といくら題目をあげても治らなかったのが、私が光≠入れることによって元気になられ、今日ここに来ていただくということになったのであります。


山崎にとって「帰依」する宗教は、国際正法協会でも日蓮正宗でも、どちらでもいい。自分を有用としてくれるところ、すなわち金になる宗教こそが「帰依」の対象なのである。この新興宗教の教祖である園頭に対し山崎は、
「南無妙法蓮華経より光≠フ効き目があった」

ということの証明役を担っている。同じ人物が、今度は日蓮正宗において「金口嫡々唯授一人血脈相承」の証明役を担おうというのである。

後日談になるが、山崎はこの国際正法協会の福岡での婦人大会に出席した数日後、園頭に対し、
「完全によくなっていると医者にいわれました」

とファクシミリで知らせたそうである。

それでいながら、山崎は今も週三回の透析をしているのであるから、何がなんだかさっぱりわからない。

この頃の山崎は、アンチ創価学会であればどことでも、また誰とでも手を組むことを考えていた。山崎は日蓮正宗の信者であり、国際正法協会の信者でもあった。この二つの宗派の信者であるということ自体が、山崎に信仰心がないことを示している。日蓮正宗は他宗派を邪教視し、国際正法協会の教祖・園頭は、「南無妙法蓮華経」を否定している。山崎は、その両宗派の信者であるというのだから、どうにも理解できない。


【資料四十八】平成七年三月二十日付『日蓮宗新聞』 〈平成六年十二月六日、東京・新宿区の常圓寺(住職=及川真介)第十九回京浜教区教化研究会議。約百人の僧を前に約二時間にわたって講演と質疑応答〉

質問 日蓮宗と創価学会が法論をした北海道の小樽問答についてどうお考えでしょうか。

答 小樽問答は創価学会が勝っています。日蓮宗は油断していたと思います。〈中略〉

この問題について、その後も先訓として生かすべきです。臭い物に蓋ではいけません。
「板本尊偽作論」もその後の掘り下げがありません。これから本腰を入れて取り組んでほしいと思います。


日蓮正宗の法主≠ナある阿部日顕と二人きりで密談するほど強信者の山崎が、「『板本尊偽作論』もその後の掘り下げがありません。これから本腰を入れて取り組んでほしい」と述べている。山崎は、日蓮正宗の尊崇の対象である戒壇の大御本尊を否定するために「本腰」を入れるよう、日蓮宗の古刹である常圓寺で発言していた。

もっとも、阿部日顕も戒壇の大御本尊について、後代の模刻であると判断しており、河辺慈篤にそのことを暴露された経過がある。山崎が他宗で戒壇の大御本尊を否定したからといって、阿部日顕にそれをとがめる資格など、ないのかもしれない。


●山崎のスタンスが変化を見せはじめる

【平成七年】

前年の七月、一時は国際正法協会の会長・園頭に「帰命」し、「光」を自分の身体に入れてもらっていたりした山崎であるが、平成七年になると、にわかにまた敬虔なる日蓮正宗の信者となる。それどころか、阿部日顕の相承を証明する重要証人になってしまうのであるから、もはや山崎の言動を追いつづけることすら、無駄な時間の消費と思われるのである。

山崎の舌は、器用で無節操で便利きわまりないといえる。日蓮正宗の機関紙『慧妙』に、山崎の「ありがたい話」が載った。山崎の軽佻浮薄な言辞をもって、何が証明されるというのであろうか。


【資料四十九】平成七年二月十六日付『慧妙』
「私が御相承≠拝信するに至るまで」

最近でも、ときおり、日達上人御遷化(ごせんげ)の前後のことを夢に見ることがある。

とくに、光久御尊師の連絡を受けて、主治医と一緒にフジヤマ病院にかけつけた夜半の、濃霧につつまれた幻想的な光景が、まぶたの奥からはなれない。 〈中略〉

平成三年の初め、思いがけぬ日顕上人猊下のお言葉を伝聞した。そして、獄中で、創価学会と池田大作破門のニュースを聞いた。

その後の経過をつぶさに見聞するにつれて、私は、日達上人のお言葉を思い出していた。
「法主の立場になれば、必ずわかるものだよ。正宗の僧侶としての魂があれば、後の人も、私のようにするだろう。心配ないよ」

日達上人は、また、
「たとえ、百姓して畑を耕してもよい。正本堂を閉めてもよい。学会の謗法を糾(ただ)すのだ」 との趣旨を仰せられていたが、まさに今日、日顕上人猊下は、同じ覚悟で創価学会を破門せられたものと拝信する。

この経過を拝見していて、私の心境も認識も、大きく変わってきた。それは当然のことである。

さて、昭和五十五年末に、私は、『週刊文春』誌上に、日顕上人猊下への御相承に疑義がある旨の一文を掲載した。その内容は、
(一)日達上人の急な御遷化で、公けの御相承の儀式が行なわれなかったこと
(二)日顕上人猊下を御指名あらせられたことは、日達上人より何度か伺ったが(そのことは私だけでなく、塚本素山氏や側近の方々が明確に伺っているが)、一面、創価学会への対処という点において、大丈夫かな≠ニの危惧をもらされる面があったこと
(三)御相承があったという昭和五十三年四月十五日、この日の日達上人のスケジュールから見て果たして可能なのか、と思えたこと
等々を疑義として挙げて、御相承はなかったのではないか、との私見を述べてしまったのであった。

なお、日達上人の御意志として、
「阿部(日顕上人)以外にいないではないか」
と強く仰せられたお言葉は、昭和五十四年四月末に、私自身が伺っている。また、御遷化直後の重役会で、御登座が追認されたことも、伺い知っていた。それらの点についても、ありのままを『週刊文春』には書いたつもりである。

しかし、御法主上人が血脈を伝えられる御相承≠ニいう深義について、それが、どのような形によって伝えられていくのか、また、学会問題への対応の在り方というようなことより、幾重も次元の深い事柄である、ということが、私にはよく解っていなかった。

また、懇意にしていただいていた御僧侶方も、私が在家であるということを考えられて、そこのところは深く話されなかった。

したがって、いつ、どこで、どのように、日達上人から日顕上人猊下へと法水が伝えられたのかということが、私には見えなかったのである。

まして、当時の私の立場としては、宗門の方針は日達上人の頃と百八十度変わったのではないか、そのために私も宗外へと追われたのではないか、と思われたから、果たして御相承=@があったのか、との疑念を懐(いだ)いてしまったのであった。

だが、最近になって、私は、日顕上人猊下が御相承≠ノついて示された御指南を、活字で拝読させていただく機会を得た。

微妙深遠な問題であり、また、私共凡下が窺(うかが)い知るべくもない事柄も多々あるために、難解で婉曲(えんきょく)な御表現の部分もあったが、くりかえし読ませていただくうちに、御相承の伝えられる形についての私の疑念は氷解していった。

また、あらためて日達上人の側近の方々に、細かい点の確認をし、さらに、間接ではあるが、いくつかの点について僭越な確認もさせていただいた。

その上で私は、日顕上人猊下の御相承≠ノついて否定した『週刊文春』掲載の見解は、今日では、認識不足であり、大きな誤りであった、との結論に達した。

また、今日の状況をふまえるならば、やはり根底において、日顕上人猊下は日達上人と同じ御境涯にあられる、と拝察するものである。

ともあれ、いかなる理由や心情があろうと、信者の立場で御相承≠云々したことは、甚だ僭越なことであり、深く反省し、お詫び申し上げる次第である。そして今後は、二度と触れることはしないつもりである。

あるいは、この私の態度に対し、「無節操」「変節」等の批判もあるかもしれない。しかし、人間、進む勇気も必要だが、改める謙虚さも失ってはならない。それを勇気といえるのだと、私は思う。


山崎がこの文で言っていることは興味深い。山崎は「いつ、どこで、どのように、日達上人から日顕上人猊下へと法水が伝えられたのかということが、私には見えなかったのである」と言っている。このことは山崎のみならず、宗門内外が持っている疑問であり、いまだもってこの疑問を氷解させる事実はない。

この誰しもが持っている同じ認識、「見えなかった」ことについての証明は山崎の文のどこにもない。山崎は、阿部日顕の「指南」を何度も読んでいると「疑問」がなくなったと言っているのである。

そして、細井管長の「側近の方々」に間接的な確認をしたことによって、阿部日顕に相承があったとわかったといっている。これらは、山崎の長年にわたる持論を覆すにはあまりにも抽象的な言々句々である。山崎は、これらの説得性のない事情によって、かつて日顕の相承を否定した『週刊文春』の文章についても、誤りがあったというのである。こうなると、『週刊文春』は日蓮正宗の宗旨の根幹にかかわる問題について大誤報をしたということになる。
「私が御相承≠拝信するに至るまで」という、山崎の白々しい自己批判の文章であるが、山崎のこの文章のくくりだけはおもしろい。自分について「無節操」「変節」だと、自己観察をする能力は残っているらしい。


●正信会の処分解除をダシに

平成七年六月六日、阿部日顕と山崎の会談が大石寺でおこなわれた。

日蓮正宗の阿部日顕に「お目通り」したことを、山崎はもう一方で「帰依」している国際正法協会主催のシンポジウムで公にした。


【資料五十】平成七年六月二十八日付『地涌』第八六二号

六月二十四日午後一時三十分から午後四時三十分まで、高知県南国市のホテル・ホリデイ・イン高知において、公開シンポジウム「日本の未来・心の道しるべ」がおこなわれた。

主催は国際正法協会で、会場にあてられた会議室には約四十名が参加。山崎正友、園頭広周(同協会会長)、頼拓司(同協会講師)の三人が話をし、その後、登壇者との質疑応答がおこなわれた。

この質疑応答の際、
「正信会と日蓮正宗はどうなっていくのか」

との参加者の質問に対し、山崎正友が以下のような注目すべき発言をした。
「六月六日、大石寺で御法主上人猊下にお目通りし、ねんごろに話をした。今後のことも種々語り合った。猊下は、『正信会とは時間はかかるが、前向きにいける』との話だった」


山崎は、日顕とじきじきに会い、正信会の復帰について話していたのである。日顕は山崎に対して、
「正信会とは時間はかかるが前向きにいける」

と述べたという。時間はかかるが正信会との復帰を約束している。このことをもって山崎が日顕の懐に完全に入り込んでいること、そして、山崎が先に出した「密書」に基づいて作戦が進められていることが確認できるのである。

正信会について山崎と阿部日顕が話し合ったことは、日蓮正宗にとっては大変な機密事項である。それを山崎は他の宗教団体の公の会合で話してしまった。

山崎は、『慧妙』に掲載された「私が御相承≠拝信するに至るまで」という手記において、阿部日顕の「指南」と細井管長側近の話を聞いただけで阿部日顕が正当に相承していたことがわかり、『週刊文春』に掲載していた記事まで撤回した。日蓮正宗にしてみれば大変に篤い信仰の持ち主である。

なにしろ山崎は、日顕の「指南」を読んで、前管長側近の話を聞いただけで相承の存否がわかるほどの信仰者なのである。

この人物が、国際正法協会という新興宗教で、正信会復帰問題という日蓮正宗の重要問題を話していたことは、決して無視できない事実である。これを場所がらをわきまえず≠ニ非難するつもりはない。山崎にとって血脈相承の正統性は、その程度のものでしかないのである。

山崎は平成八年十二月十九日、かつて愛人であった鈴木陽子から一千万円の貸し金の返済を求められ、大分地裁に訴えられた。この裁判の過程で、山崎は弁明のために平成九年秋ごろに「陳述書」を書いているが、そこでも阿部日顕の相承問題、正信会復帰問題に触れている。


【資料五十一】「陳述書」平成九年秋頃

日蓮正宗は、ついに反創価学会運動を止めぬ二百人余の僧侶を僧籍剥奪処分にし、寺から追い出そうとしました。

彼らは、これに対決するには、先師と正反対の方針をとる現法主の、法主継承がなかったとして、その地位、その相承を争い、処分権を否定するしかない、と考え、前法主の側近くにいた私に協力を求め、私はこれに応じて現法主上人の法主継承は手続上も宗教上もなかった、という一文を週刊文春に掲載し、これをもとに正信会は反撃の足がかりとしてきました。

折から、日蓮正宗のしめつけによって寝返る僧侶も出て、正信会は苦しい立場にありました。

これに対抗する手段として私や共に造反した原島嵩教義(ママ)部長の影響力を大いに利用するために、私達にマスコミ活動や啓蒙活動を要請しました。私達は全力をあげてこれにこたえました。正信会の機関紙「継命」の刊行についても私達は貢献し、原島氏は継命新聞社の社長になり、今も同社で仕事をしています。


このように山崎は、日顕宗の立場にありながら、阿部日顕に細井管長より相承がなかったと『週刊文春』などに書いてきたことについて、誇らしげに書いている。また正信会についても、同志的連帯を保っていたかのように綴り、それゆえに「現法主上人の法主継承は手続上も宗教上もなかった」と述べている。山崎は正信会に義理立てをし、『週刊文春』に阿部日顕批判の文を書いたと言い逃れをしている。また、山崎はこの文の中で、継命新聞社在職中の原島嵩について、同志であるかのように書いている。


●原島と組んで日顕の相承を証明

その山崎と原島がこのたび、日顕宗機関紙の『慧妙』紙上で対談し、阿部日顕の相承の正統性について証明している。「昭和五十三年四月」のことについて以下のように述べている。


【資料五十二】平成十五年八月十六日付『慧妙』

五十三年四月だと思いますが、西片の大石寺出張所にお伺いしたところ、その時も日達上人は休んでおられたんですが、私に、
「何とか、若手の僧侶達を抑えてもらえないか。もう彼らは、私の言うことも聞かないんだ」 と仰せられました。

――その時期は、ちょうど、日達上人が現御法主日顕上人に内付嘱をなさった時期ですね。

山崎 そうです。猊下(※日達上人)は非常にお身体に不安を感じられていました。そういう中ですから、万が一ということをお考えにならざるをえない、とすると、やはりその時期に後継指名があったことは間違いがないと思います。少なくとも、この頃、私は何回か、日達上人が「次は阿部教学部長に」と仰せられたのを聞いていますし、そのことは何度も活字にしました。


山崎は以上のように、阿部日顕が細井管長より相承を受けたとする昭和五十三年四月十五日について、次期法主であることを細井管長より直接聞いていたというのである。これまで相承がないといってきたのに、突然変節してこういうことを言い出す。この変節した証言≠信じる者はいないであろう。細井管長のこれほど明確な後継指名を聞いていたのであれば、山崎が阿部日顕に対して不相承だといい、マスコミなどに書いてきたことはことごとく大ウソだったということになる。何だかんだと言っているが、ここで確実に証明できたことは、山崎正友が天下をにぎわす大ウソつきだということだけである。

山崎は、先に紹介した平成七年二月十六日付『慧妙』掲載の、「私が御相承≠拝信するに至るまで」という手記において、日顕の「指南」を読み、細井管長の側近の話を聞くなかにおいて、阿部日顕の相承が間違いないと書いていた。このように、相承(後継指名)について間接的にしか知らなかった山崎が、「次は阿部教学部長に」という細井管長の言葉を聞いた証人に急になってしまう。

山崎からみれば、日蓮正宗も、国際正法協会も同程度にしか映っていないのである。山崎がいずれの宗教においても、証人役を買って出ることを好むのは先述したとおりである。

さて、『慧妙』における山崎の気ままな証言≠ヘ続く。


【資料五十三】平成十五年九月一日付『慧妙』

山崎 御遷化の前日の二十一日、フジヤマ病院に入院されていた日達上人は、私の紹介した東京の病院へ移って、治療に専念することに同意されたのですが、その際、
「どうしてもしなくてはならぬ大事なことがあるので、明日一日だけ本山に帰る」
「明日、後のことを全部はっきりしてから、東京に行くから」 と言われ、大宣寺さん(※大宣寺・菅野御住職)に
「寝たままでいいから、対面所に布団を敷(し)いておくように」
と指示されたわけです。

そして、大宣寺さんやお仲居さん(※現在の妙縁寺・光久御住職)に、翌日・二十二日は御山にいるよう、仰せられました。

私はその夜、猊下の御健康上の重大な事柄ですから、いちおう総監さん(※現・阿部日顕上人)には転院する経過をきちんと報告しておこう、と思って、お電話したんです。その時に、総監さんは、
「そうですか。どうもご苦労様です。私も明日、猊下から御山へ来るように言われています」
と、おっしゃっていました。


これに対して『慧妙』編集部は、「それは重大なことですね」と述べている。まさに「重大」なことである。山崎は、細井管長が亡くなる前夜、当時総監であった阿部日顕に電話したという「新事実」を明かしたのである。

これほど「重大」なことが、細井管長が亡くなった昭和五十四年から二十四年を経た今日になって初めて明かされた。なんとも奇怪なことである。

山崎は、阿部日顕に謝罪されたので、これまでのことは水に流し、平成六年十二月に理境坊の檀徒になったと公言してきた。その後山崎は、この対談が掲載された『慧妙』(平成七年二月十六日付)紙上に、「私が御相承≠拝信するに至るまで」という長文を掲載するにいたっている。

だが、このような「重大」な事実は、遅くとも、「私が御相承≠拝信するに至るまで」を書いたときに公表すべきである。細井管長の死去から二十四年、「私が御相承≠拝信するに至るまで」という長文を書いてから八年、いまになって当時総監であった阿部日顕が、細井管長が死去した二十二日に大石寺に呼ばれていたなどとする「新事実」を明かしたところで、誰がそれを信じようか。

山崎お得意の、虚構の作出にほかならない。浜中の『回想録』で述べている細井管長の言葉、「明朝、どんなことがあっても本山に帰るから、大奥の対面所に布団を敷いておけ」に、調子を合わせているだけのことである。このとき山崎は浜中と電話で、菅野、光久のいずれに相承がされるのだろうかと話し合っている。そのことを記述した浜中の『回想録』にそって作り出した虚構が、先述の『慧妙』紙上において山崎の口から明かされた「新事実」である。大奥に阿部日顕も呼ばれていたということにしたいのだ。浜中の『回想録』の迫真性を崩せないと考えた上での苦肉の策である。

なお、ここで見逃してはならないのは、この「新事実」が阿部日顕との電話による会話であるということである。すなわち、このたびの虚構の作出は、山崎と阿部日顕との共謀のうえであったとみるべきである。

阿部日顕の相承の正統性は、まさに山崎の舌先三寸にかかっている。その山崎の舌がいかに不道徳であるかは、第2章で余すことなく明らかにされた。いまや日蓮正宗の法主の地位は、かくも不道徳な舌によって支えられる程度のものなのである。

阿部日顕と山崎正友――、この二人ほど「金口嫡々唯授一人血脈相承」という日蓮正宗の虚妄をみごとに打ち砕いた者はいないといえる。