●あまりにおぞましい人物=山崎正友
本章では、山崎正友が法主≠フ正統性を証明するのにふさわしい人物なのかどうかを見きわめていきたい。
山崎は、懲役三年の実刑判決を受けた恐喝事件に対し、出獄後のいまなお冤罪であると主張している。山崎はその理由として、創価学会の集団偽証を挙げている。山崎の恐喝は、創価学会と日蓮正宗とのあいだに軋轢を生じさせ、それをまたみずから沈静させるという繰り返しのなかでおこなわれた。いわゆるマッチポンプ≠ナある。山崎が恐喝の材料にしたのは、宗門問題であった。
宗門問題には、当時の日蓮正宗と創価学会の関係、細井日達管長の心情の変化、若手の出家たちの驕慢など、複雑な要素が絡まっている。山崎はこの宗門問題を自在に操るべく、煽動、威迫、攪乱の手段としてマスメディアまで利用した。しかも、この宗門問題は長年にわたったため、第三者から見れば非常にわかりづらいものとなっている。
山崎が事実に反して、冤罪であるといまだもって主張している背景には、そうした事情がある。
その山崎が、自己の弁明にとどまらず、なんと日顕に代わって法主″シ称の弁明まで買って出たのである。山崎は日顕宗の機関紙『慧妙』紙上に、「今こそ史実の裏側まで全て語る!」と、歴史的な重要証人として登場している。はたして山崎の証言≠ヘ信用するに足るのか、はたまた山崎は信用するに足る人物≠ネのか。
以下、一つの訴訟を追っていきたい。この訴訟では山崎が集団偽証≠ニ言い逃れをする余地などまったくない。登場人物は、山崎本人と山崎の元・愛人、そしてその夫だけである。原告は元・愛人の夫で、小さな田舎町に住む一市井の人物である。
平成十二年三月十三日、山崎正友に対し慰謝料を請求する訴訟が大分地方裁判所で起こされた。山崎を訴えたのは、大分県A市に住む鈴木良雄(仮名)である。鈴木は、その妻・陽子(仮名)と山崎の不倫関係によって生じた精神的苦痛に対する慰謝料を求め、山崎を訴えたのであった。
被告の座についた山崎はあらゆる言葉を駆使し、慰謝料の支払いを拒んだ。裁判において山崎の放った言々句々――、それらはまさに山崎の卑しさを活写してあまりある。山崎は裁判での主張を通して、人々が思わず顔をそむけたくなるような卑しい姿をみずから描いてみせた。自画像ならではの醜さを、この裁判を通してじっくり見ていきたい。山崎がいかにきれいごとを言い、いかにもっともらしい理由を書き連ねようとも、そこに浮かび上がる人物像はあまりにおぞましい。
山崎はいつものことながら、この裁判においても、創価学会や日蓮正宗、正信会を持ち出している。山崎はそこでお得意の攪乱≠しているつもりであろうが、読む者から見れば、強引なまでの自己正当化としか映らない。だが、なぜか山崎は、そのような客観的視点にまったく立てないのである。
原告・鈴木良雄が大分地方裁判所に提出した「訴状」によれば、被告・山崎正友に求めた慰謝料は五百万円。「請求の原因」は、山崎が、鈴木陽子に原告・良雄という夫がいることを知っていたにもかかわらず、昭和五十八年六月から平成三年二月まで、八年近くにわたって不倫の関係を続けていたことにある。
不倫の発端は、山崎が陽子を東京に呼び出した際、強引に肉体関係を結んだことにある。この事情の背景には、山崎が反創価学会活動において正義の士≠よそおっていたことがある。陽子が所属する正信会がこの山崎を支援していた。それによって陽子の心の中にスキができたと言える。
鈴木良雄から大分地裁に出された慰謝料の支払いを求める「訴状」に対し、その必要はないと、山崎は平成十二年四月十日付で「答弁書」を出した。
山崎は、同年四月二十八日の大分地方裁判所における第一回口頭弁論を欠席する旨を通知。まずこの「答弁書」で原告の請求を否認し、即座の対応を避けた。
第二回口頭弁論は、同年六月八日におこなわれた。この日、初めて出廷した山崎の顔は土気色で、精気がなかった。それでいながら白いピンストライプの青いスーツに黄色のネクタイと、服装だけは派手。このとき山崎は「準備書面」を提出し、概略次のような主張をする。
一、鈴木陽子が「『自分と主人は、事実上夫婦関係が無くなった状態であり、自分は何をしょうと自由である』と述べて、交際を強く望んだことから始まった」。不倫関係を結ぶことについては、陽子が積極的であった。その不倫関係は「なかば公然と行われた」。良雄もそれを「容認」していた。
二、交際中、良雄とその妻・陽子は「正式離婚を前提に、長期別居状態に入っていた」。
三、陽子は平成八年に貸金返還請求の訴訟を起こしており、これらについての報道を「創価学会支配下のマスメデア(ママ)」が報道していた。したがって、良雄が「これを知らずにいたということは有り得ない」。平成十一年十二月に陽子が良雄に打ち明け、不倫の事実を良雄が初めて知ったとして、この裁判が起こされたことは不当。
四、良雄はこの不倫関係を容認しており、この裁判は自分に対する「いやがらせ」を目的におこなわれたもの。
五、以上の一から四の理由により、良雄が「精神的損害賠償請求する法的根拠はない」。
だが、山崎のこうした主張は、裁判の経過とともに崩される。
●金銭もからみ泥沼の様相を呈す
さて、現実には、山崎と鈴木陽子の関係は、肉体関係のみにとどまらず金銭の問題まで派生していた。
昭和五十八年九月のこと、山崎から「月々二十万円のお金を貸してくれないか」と頼まれた陽子は、口約束のみで山崎に金を貸しはじめる。「月々二十万円」で始まった貸し借りは、その後、昭和六十年八月ごろまで続き、月によっては五十万円、六十万円、八十万円に達することもあった。
それ以外にも陽子は山崎に、昭和六十年八月二十七日に一千万円を貸したという。このため平成八年十二月十九日、陽子は大分地方裁判所に、貸金を返済せよと山崎を相手どり訴訟を起こしていたのである。だが、これに対して山崎は、「一千万円については、自分は仲介しただけで真実の借主ではない」と主張した。
山崎はこの一千万円の返済をめぐる裁判において、「普通預金出入金取引明細書」を法廷に提出した。同「明細書」により確認されるだけでも、約九百万円余が振り込まれている。それも、昭和五十八年十一月から昭和六十年三月の一年五カ月のあいだだけにである。
それ以外にも陽子は山崎に直接、金を手渡している。山崎はそれらの金については、正信覚醒運動≠ノ賛同した陽子からの「カンパ」だと同裁判で主張した。山崎が陽子から受け取った金が、借りたのではなく「カンパ」だと言い張れば言い張るほど、第三者には、不貞関係を結んだ女性に山崎が金を貢がせたというふうにしか見えない。
この一千万円をめぐる裁判は、一審の大分地方裁判所では陽子が勝訴した。だが、二審の福岡高等裁判所においては、一審の判決がくつがえり山崎側が勝訴。
福岡高裁の判決が出たのが、平成十一年十一月十八日。山崎に貸した金がもう返らないと観念した陽子は、翌十二月、夫婦で長年かけて貯めた三千万円に及ぶ預金のほとんどを、山崎との不倫関係を続けるなかで失ってしまったことを夫・良雄に告げ、同時に山崎との長年にわたる不倫関係をも告白し、良雄に謝った。
しかし、老後のために蓄えていた三千万円を失い、そのうえ妻の不貞を知った良雄の気持ちがおさまるはずもない。ショックを受けた良雄は以後、酒びたりとなり、たちまちのうちに十五キロも痩せてしまう。
それでも、良雄は失意のどん底から、陽子の不倫の相手である山崎正友に対し五百万円の慰謝料を求め大分地方裁判所に訴えたのであった。この程度の金額で取り返しがつくはずもない心の傷を良雄は負っていた。それは誰しもが感じることだろう。
ところが、この慰謝料請求訴訟における良雄の「請求の原因」に反論する山崎の主張はあくまでも白々しい。山崎は、「準備書面」の「一」と「二」において、良雄と陽子の夫婦関係がすでに破綻しており、離婚を前提に別居していたと主張する。そして、陽子が一千万円をめぐる山崎との争いで福岡高等裁判所において敗訴したことで、「いやがらせを続けるため」に慰謝料請求訴訟を良雄が起こしたと、「準備書面」の「四」で主張している。
しかし、この「準備書面」における山崎の言い分は、合理性を欠いていると言わざるを得ない。
そもそも、山崎の主張によれば、不倫の発端は陽子が山崎に関係を迫ってきたことによるという。その陽子の衝動の背景には、良雄との夫婦関係の破綻があり、二人は離婚を前提に別居状況にあったとさえ言うのである。
ところが山崎は、良雄から五百万円の慰謝料を請求された訴訟において、これは陽子と良雄の二人による「いやがらせ」だと主張している。だとすれば、鈴木夫妻が山崎に対し仲良く「いやがらせ」をしていることになる。これはずいぶんとおかしな話である。
昭和五十八年六月、山崎と陽子の関係ができたとき、陽子と良雄の二人は離婚を前提に別居するほど、夫婦仲が冷めていたというのが山崎の言い分。にもかかわらず、平成十一年十二月、陽子が金と不倫の件を良雄に告白したことにより二人は仲良くなり、平成十二年三月には、良雄が陽子ともども「いやがらせ」目的に訴訟を起こしたというのである。
誰がどう考えても、不倫をし、老後に備えて蓄えていた大金をその関係の中で失ったことを告白されれば、夫婦仲が壊れることはあっても、よくなることはない。事実、陽子の告白後、良雄と陽子の関係は決定的なまでに悪化し、別居に至っている。したがって、山崎の主張するように、この慰謝料請求訴訟が「いやがらせ」目的などということは、どこをどう叩いても出てくる考えではない。
山崎の言い分は余りに自己弁護に過ぎるというものである。これは被害妄想の域を超え、加害者でありながら被害者をよそおっている主張にほかならない。
良雄が、妻の不貞という恥を忍びながらも、憤怒の思いをもって山崎を訴えたことを思えば、山崎が裁判という公の場でこのような理不尽な主張をなすことに、いっそうの腹立たしさを感ずる。
●山崎正友の主張
同年七月二十四日、鈴木良雄の代理人弁護士は「準備書面(一)」で大要、次のように主張した。
一、不倫関係は山崎の積極的な働きかけによって開始されたもので、鈴木陽子の積極的働きかけにより開始されたものではない。
二、山崎が「主張」するような、正式離婚を前提にした長期別居の事実はまったくない。陽子が大病を患い入院した時、夫の良雄は病院に泊まりこんで食事や洗濯の世話をした、あるいは良雄は陽子の健康を気遣い、食材すらみずから買い求め陽子に食べさせたことなどがある。したがって、山崎と陽子との不倫関係がつづいている間も、夫婦は同居しむつまじく生活していたのである。
三、山崎が主張するような陽子と山崎との不貞関係を良雄が「容認」していた事実はまったくない。不貞のきっかけとなったと山崎が主張している「自分と主人は、事実上夫婦関係が無くなった状態であり、自分は何をしようと自由である」と言って陽子が山崎に迫ったというが、その発言がなされた@日時A場所Bどのような状況かを明らかにせよ。
同年七月二十七日、第三回口頭弁論が大分地方裁判所でおこなわれた。午後一時過ぎに法廷に入ってきた山崎は、前回同様、白いピンストライプの青いスーツに黄色のネクタイ、顔もまた土気色であった。この法廷で表立ってのやりとりはなかった。
同年九月二十八日、第四回口頭弁論が大分地方裁判所でおこなわれた。相変わらず山崎の頬はこけ、顔色も悪い。このとき山崎は、提出した「第二準備書面」において、陽子との交際について、最初の「準備書面」の主張にそいながらもより具体性を持たせ、以下のようなことを述べている(なお文中、「浜中」とあるのは正信会所属の伝法寺住職・浜中和道のこと)。
「陽子は、その後、被告が浜中に招かれ、十回近く訪れた際、いつもプライベイトな席に顔を出し、ゴルフに行った時(二回)観光や温泉に招かれた折(三回)等、なぜか只一人浜中と同行し、その都度被告に只ならぬ親愛の情を示した。
三百世帯、およそ五百人の伝法寺信者には女性もたくさん居り、総代、責任役員等の役職者もいたが、そうした人物は只一度を除き全く同行せず、陽子一人が常に同行した。
浜中はその理由を、被告に、 『鈴木陽子さんが是非会いたい、一緒に行きたいと言っているので、参加させたい』
と説明し、了解を求めていた」
「ある日陽子は電話で『所用で上京している。是非会いたい』
と言ってきたので、熱心に支援してくれている人であり、無下にも断れず、会って食事を共にした。
その時、陽子は、被告の厳しい境涯を思いやる同情と共に、被告に対する特別の好意を吐露した。 『あなたのような素敵な人にあったのははじめてだ』
と言い、 『今後、ずっと応援をつづけたいしつき会(ママ)ってゆきたい』
と言った」
この「第二準備書面」における山崎の主張(概要)は、以下のように続く。
昭和五十八年六月におこなわれた正信会の大阪大会に出席した後、陽子が山崎に「上京するから会ってくれ」と言い、山崎は陽子と「東京で会うことになった」という。上京した陽子は山崎に対し、「慕情を訴え、思いを叶えてほしいと言った」という。
山崎はみずからの筆の走るままに、モテモテの色男であったと、裁判所に提出した書面のなかで述べているわけだが、なかなか書けることではない。
山崎が私に以下のように話したことがあったことは先述した。
「俺もチビでハゲだが、あいつほどコンプレックスはひどくない」
ここで山崎の言っている「あいつ」とは、『慧妙』紙上で対談している相手の原島嵩。この山崎の発言からすれば、山崎が原島ほどではないにしても、「チビ」で「ハゲ」であることに劣等感を持っているのは、明らかである。その山崎が、まるで白馬に乗った騎士のような男ぶりのよさを、裁判所に提出した書面のなかで綿々と述べている。
山崎の舌は止まるところがない。山崎は次のように主張を続ける。
「当時、二十代のモデルの女性と短大生と交際があり、陽子に対して特別の情を持ってはいなかったし、女性の相手を、求めているという状況にもなかった」
もう真面目に読んでいるのもはばかられる、山崎の「第二準備書面」である。
●ウソの上にウソを積み重ねていく山崎
山崎は、陽子が山崎の歌った唄を録音したテープを「毎夜、一人で聞いている」などといったもっともらしいことまで書き、陽子が自分に対し「積極的に男女の交際を求めた」との主張をする。
もっとふるっているのは、関係を迫ってくる陽子に、山崎が「夫がいるのでないか」と「やんわりたしなめる」ことまでしたというのである。
陽子は、「夫婦関係は形式だけで、全く自由の身であることを強調」したうえで、関係を迫ったという。さらにそのうえに、陽子は山崎に対し、夫婦関係が希薄である根拠として、自身が「人工肛門」をつけていると言ったというのである。
ひきつづき山崎は、まるで公証人役場で公正証書を作るときのように、鈴木陽子に念を押して告げたと、以下のように主張する。
「自分は、刑事被告人だし、将来のこともよくわからない。やらなくてはならぬことがあって、それに一生をかける決心をしている。結婚とか同居とかはもちろんできない。又、自分の生活にはだれにも干渉されたくないし、しばられたくない。お互いに相手をしばらず生活に干渉せず、時に会って楽しくすごすというだけの大人の関係なら可能だが、それで良いか」
山崎によれば、陽子が「それでも良い」と答えたので、陽子と「ホテルで最初の関係を持った」という。男と女が肉体関係を結ぶ直前の会話とは思えない。慰謝料の支払いを拒むため、ただ法的責任を回避している言葉にしか見えない。
「二十代のモデルの女性と短大生」にモテているという「刑事被告人」が、このような念押しをして、同情から不貞関係を持つに至ったというのだが、おそらく誰も信ずる者はいないであろう。ちなみに当時、山崎は四十七歳、陽子は山崎より年上。
その後の二人の関係は、山崎によれば次のようなものであったという。
「一日でも電話を怠ると、金切り声をあげんばかりに被告をなじり」
「陽子が電話をかけた折にたまたま被告が留守にしていると、狂ったように知っているかぎりの出先に電話をしてさがすようになった」
「そのうち、思い込みから暴力を振るったり、強引に被告の住居に押しかけて来て、部屋のすみずみまで点検したことも合(ママ)った」
まだ続く。
「東京でいっしょにいる時、被告がたまたま知り合いの女性や飲食店の従業員と話したりするとき、不機嫌さを隠そうとせず、その相手をにらみつけたりした」
そして、もっと続く。
「性的要求も強くなり、たまたま会った時、被告が関係出来ない状況にあったりすると、
『高い旅費をつかって出てきたのに』
と当たり散らした。被告を独占しようとし、又奉仕を求めるようになった。こうした性格に接して、被告は次第に興ざめし、嫌気がして来て、出獄後は、ことに身体の衰弱もあって、行動も思うにまかせず、会う気もしなくなったのである」
私は山崎の性格をよく知っている。山崎は女性に対してこのような忍耐強さをまったく持ち合わせていない。山崎の女性蔑視、女性に対する薄情さを、山崎のそばにいたころ私はいつも感じていた。山崎は、相手が男であれ女であれ、自分の都合次第でことごとく使い捨てるのである。
また一般的に考えても、遠く離れた大分県在住の一女性に、ここまで虐げられながらつき合いつづける東京の奇特な男性などいない。山崎は裁判所に提出した「第二準備書面」で、このような信じがたい話をとうとうと展開したのであった。「第二準備書面」における山崎の荒唐無稽な主張は、なおも続く。
山崎は陽子が、
「一年ばかり経ったころから、次第に態度が変わり、被告の生活に干渉し、立ち入ろうとし、しきりとやきもちをやいて被告の身辺を調べたり、所有物を点検するようになった」
と主張。それであるのに山崎は、
「月に一回必ずと行(ママ)ってよいくらい上京してきた」
と言い、陽子とは、
「そういう状況が実に六年余りもつづいた」
と言うのである。これでは逢瀬が、女性の一方的意思のみで成り立つということになる。そういう男と女の性的関係がこの世にあるというのであろうか。
さてここで、平成八年十二月に陽子が山崎を相手どって大分地方裁判所に提訴した貸金返還訴訟において露呈した事実を確認しておきたい。
山崎と陽子に男女の関係ができたのは、昭和五十八年六月。これについては両者が認めている。一千万円の金のやりとりは、昭和六十年八月。その間、二年二カ月という月日が経っている。二人が不倫の関係とはいえ、むつまじくしていなければ、陽子が一千万円をもって、東京にいる山崎のもとに来ることもない。
確かに、この一千万円をめぐっては、陽子は山崎に貸したものであると言い、山崎は陽子が他者に貸した際に仲介をしただけだという。いずれにしても、山崎と陽子のむつまじい関係があったからこそ一千万円は動いたのだ。山崎が「第二準備書面」において主張している、「(陽子が)一年ばかり経ったころから、次第に態度が変わり」、山崎に対してなんだか嫌なことばかりしているといった主張は、この一千万円の貸借によってくつがえるのである。
●山崎は「女と金だけしか頭にない奴」
さて、山崎は「第二準備書面」において、鈴木陽子と最初の関係が結ばれたのは、陽子のほうから一方的に迫ってきたからだと述べている。では、実際はどうだったのだろうか。
ここに一つの「上申書」がある。陽子が、山崎に対し一千万円の貸金を返還してほしいと申し立てた訴訟で、裁判所に提出したものである。その「上申書」には山崎の綴る「真実」とは対極の事実が記されている。なお、文中の「被告」とは山崎のことである。
「その時、被告が、
『今日は泊まっていくんだろう』
と言いますので、私は甥も東京にいますし、また、昔の友人もいますので、そのどちらかに泊まる予定だと言いますと、被告は帝国ホテルに部屋を用意してあると言いました。私はそのような高級ホテルには生まれてから一遍も泊まったことはありませんでしたが、折角、被告が予約してくれているので仕方なく帝国ホテルに泊まることにしました。すると被告は部屋までついてきました。そして無理やりに私に関係を迫ったのです。私はその時は、丁度、生理の最中でしたし、好意は抱いていても夫のある身です。被告にそのことを告げて拒絶しました。すると被告は、
『生理中であってもかまわない』
と言い、
『このホテルをとるのに、俺は五万円も出したのだ』
と言って、私に襲いかかったのです」
山崎の「第二準備書面」の記述と鈴木陽子の「上申書」の描写のいずれに迫真性があるかについては、読者の判断に任せることにしよう。
山崎は「第二準備書面」において、以下のようなことを続けて書いている。
○ つき合って「二―三年たって」から陽子が「主人には多額の金をわたして、事実上わかれた」と述べた。
○ 陽子の家が、「水害にあい、相当ひどく浸水した」時に浜中住職と一緒に見舞いにかけつけた。
○ のち、陽子に「せがまれて」陽子の家に行ったことがある。
これらの山崎の示した「事実」は、以降の裁判において原告代理人弁護士より論破されることになる。
ともあれ、山崎は「第二準備書面」において、簡単に虚偽であると見破られる「事実」を連ねたあと、以下のように虚勢を張ってみせる。
「被告は、かりそめにも付き合った女性について、その事実を公表したり、別れた理由について延(ママ)べたことは一度もない。
付き合った相手をけなすことは、とりもなおさず自分の見る目のなさ、人格のいたらなさを示すことになるからである。
それは、一つの思い出として、自分の心中に止めておくのが、男の節度だと考えている」
以上のような山崎の主張に対し、鈴木良雄の代理人弁護士が「準備書面(二)」(平成十二年十二月七日付)において反論している。
○ 山崎は住職・浜中と共に水害の見舞いに来ていない。
○ この水害の復旧時、良雄は陽子と共に生活していた。
○ 山崎が陽子と初めて会った時、住職・浜中から夫の良雄も陽子と一緒に紹介されている。
○ 山崎が初めて陽子に会った昭和五十八年一月頃、山崎は創価学会と対立する正信会において「ヒーローのような存在」であり、「雲の上の人物」だった。
○ 山崎が生活資金や裁判資金に乏しい状態にあり、カンパを正信会などに呼びかけていた。
○ 陽子が山崎に貸したお金の総額は「二千数百万円」である。
年が変わって平成十三年二月八日、第五回口頭弁論が大分地方裁判所においておこなわれた。原告・鈴木良雄の代理人は、証人として良雄の妻・陽子、住職・浜中和道を証人申請するとともに、原告である良雄および被告・山崎正友の尋問を要請した。
このとき山崎は、「準備書面(三)」を提出、かつて陽子が被告・山崎に対する一千万円の貸し金について起こした訴訟の本当の目的は、
「被告が他の女性と結婚したことに対する嫉妬と被告に捨てられたうらみをはらし、被告を苦しめ、カンパした金が惜しくなってとりかえすため」
であったと主張する。
さらに山崎は、陽子との関係が「七年余りの長きにわたりつづいた」ことをもって、
「通常の夫婦間で、妻がこのようにおおぴら(ママ)に他の男と交際し、他の男に身も心も傾いているのを夫が七年間も気付かずにいるということはおよそあり得ない事である」
と述べる。つまり山崎は、夫・良雄が陽子の不倫を「容認」していたと言うのである。
平成十三年四月十九日、大分地方裁判所で第六回口頭弁論が開かれた。ここで山崎は「陳述書」(平成十三年四月十一日付)を提出した。
この「陳述書」でも山崎は、良雄が陽子の浮気を「黙認」していたと強調。さらに、先に陽子が山崎に対して起こした貸金返還訴訟そのものが、山崎が再婚したことをきっかけに起こされたもので、その動機は陽子の嫉妬であると言う。さらに山崎は、その訴訟が根源的には「創価学会にそそのかされて」おこなわれたものだとまで主張しはじめる。
山崎はこの「陳述書」で、原告・良雄が「にぶい」のだから、そのような男が女房に「浮気」と「カンパの事実」を「打ち明けられたとしても言うようなショックを受けるはずがありません」と述べるに至る。山崎のそれは、もう裁判における正常な主張とは言えない。
山崎は陽子に対しても悪態≠つく。
「私としても、こんな後味の悪い女性との交際ははじめてであり、その後もありません。大変よい勉強になったと思います」
一方、同日の口頭弁論において、原告・鈴木良雄の「陳述書」、その妻・陽子の「陳述書」、そして伝法寺・住職・浜中和道の「陳述書」もそれぞれ提出された。
住職・浜中は「陳述書」のなかで、山崎が平成十二年九月二十八日付で出した「第二準備書面」の中で、「ぜひ会いたい、一緒にゆきたい」と陽子が浜中に頼み、山崎とゴルフ、温泉旅行に常に陽子一人が付き添ったとの主張をしているが、そういう事実はないと断言した。さらに、かつての盟友ながら山崎を糾弾し、「金を借りまくり姿を隠した山崎氏の行為、ましてや良雄さんをよく知る私にとっては、山崎氏のしたことは非道の行為」だと述べている。
さらに浜中は、山崎に対する率直な思いを綴っている。浜中によれば、創価学会批判を続けたジャーナリストの内藤国夫がかつて山崎を評して、「女と金だけしか頭にない奴」と語ったという。その内藤の発言が、「的確な言葉として、今も脳裏から離れません」とまで述べているのである。
●鈴木陽子と山崎正友との出会い
原告・鈴木良雄の妻である陽子の「陳述書」の一部を以下に抜粋し、引用する(ただし、【 】内の表記は筆者による)。
【みずからが重病におちいったときの様子について】
「主人は泊りがけで、私の身の回りの世話など私の看病をしてくれたのです。主人の献身的な看病がなかったならば、私は到底、闘病生活に耐えられなかったと思います。今まで私の命があるのは、主人のお蔭だと本当に感謝しております。私はその後も今日に至るまで、何度も入退院を繰り返してきましたが、その度ごとに主人は献身的に私の世話をしてくれました」
【昭和五十八年、山崎と会った経過について】
「浜中御住職から、元創価学会顧問弁護士で正信会にとっては大事な人と被告を紹介されました。私は正信会の機関紙などで、被告が創価学会の元顧問弁護士で、正信会の大会で大勢の信者さんたちを前に講演していることを知っておりましたので、『ああ、この人が例の有名な山崎正友さんか』と、まるで著名人に接したかのような気持ちになりました。
その日、浜中御住職から、被告に少しカンパしてくれないかと依頼されました。当時、被告は、創価学会に対する恐喝裁判の裁判中でしたが、自分は無罪であると主張しており、正信会でも、被告は創価学会と戦う正義の士∞正信会のリーダー的存在≠ニして扱い、被告に対するカンパを募っていたと記憶しております。私は、浜中御住職からの申し出を受けて、快く被告に対し10万円をカンパしようと思い、翌日、10万円をお寺に持参して浜中御住職に渡しました」
【その後の山崎からのアプローチについて】
「被告から私の家に電話があり、そのときは単に、先日はありがとうございましたという儀礼的なお礼の電話だったのですが、その後、どういうわけか、被告から頻繁に電話がかかってくるようになりました。電話の内容は今度、正信会の大会が○○であって、そこで講演する≠ニか今、僕は創価学会と命懸けで戦っている≠ニか今度、週刊誌に僕が書いたものが載るから読んでください≠ネどといった内容で、田舎に住んでいる私にとっては、雲の上の出来事と思えるものばかりでした。
どうして被告が私にそのような電話をかけてくるのか、初めのうちは戸惑っておりました。しかし、やがて私は被告の話を聞いているうちに、なにか優越感にも似た感覚を覚えるようになったのです。今、思えば愚かなことですが、当時、創価学会の元顧問弁護士であり、正信会のリーダー的存在の被告から直接、電話をもらうこと自体、一信者の立場からしてみれば、通常ありえないことであるのに、なおかつ被告の機密とも思える正信会や創価学会に関わる話を聞いているうちに、一種の優越感が心の中に芽生えておりました」(筆者註 文中の○○は原文のまま。地名を示すものと思われる)
【このあと上京し、山崎と会い十万円をカンパしたときのことについて】
「食事が済んだ後、おそらく六本木だったと思いますが、被告にバーのようなところへ連れて行ってもらった記憶があります。私も被告もお酒がまったく飲めないので、そこではジュースやウーロン茶を飲んでおりました。
バーから出て被告と私は歩道をしばらく歩きました。私は歩きながら、『山崎先生とこんな風に東京で会うのは、これが最初で最後ですね』と話しました。私としては、被告と東京で二人きりで会うこと自体、主人に対してうしろめたい気持ちをもっておりましたので、正直に被告に話したつもりでした。被告はしばらく黙っておりましたが、突然、私に腕組みするように腕を巻きつけてきました。やがてその腕が私の肩に回ってきました。
やがてタクシーを拾って、帝国ホテルを経由して私が宿泊する予定である上野のホテルまで帰ることになりました。タクシーが帝国ホテルに着き、被告が車から一旦、降りた時のことでした。タクシーのドアが閉まりかけようとした時、さっと被告は私が座っているところまで身を入れて私の体を引き寄せ、頬ずりをしたのです。その後、私は宿泊先の上野のホテルに戻ったのですが、タクシーに乗っている間中、主人に申し訳ないという思いでおりました」
●帝国ホテルで、襲いかかるようにして……
【昭和五十八年六月の初めての逢瀬について】
「被告と帝国ホテルのロビーで待ち合わせをし、一緒に高級な鉄板焼屋で食事をしました。食事をしていると被告が『今日は泊まっていくんだろう』と言いますので、『甥も東京にいますし、また、昔の友人もいますので、そのどちらかに泊まる予定です』と言ったところ、被告は『帝国ホテルに部屋を用意してあるから』と言いました。私はそのような高級ホテルには一度も泊まったことがありませんでしたが、折角、被告が私のために予約してくれているんだから、その好意を無駄にしては申し訳ないと思い、帝国ホテルに一人で泊まることにしました。
食事を終え、被告は私を帝国ホテルまでタクシーで送ってくれました。私がタクシーから降りると、被告も一緒にタクシーから降りてきました。フロントで鍵をもらい、私が一人で部屋へ行こうとすると、被告が私のあとについてきました。私は嫌な予感がし、『もう大丈夫ですから、一人で部屋に行けますから』と、被告の機嫌を損なわないように話しました。しかし被告は、一向に帰ろうとはせずに、とうとう部屋までついてきました。
部屋に入るなり、被告は突如として私に関係を迫ってきました。私は被告に対し好意的な感情は持ってはいたものの、男女の関係になることなど望んではおりませんでした。私は『夫のある身です』と被告に言って拒絶しました。なおかつその時、私は生理中であったのです。しかし被告は、『生理中であってもかまわない』と言い、『このホテルをとるのに、俺は5万円も出したのだ』と言って、私に襲いかかるように関係を迫ってきたのです。力の弱い私は被告の力に屈する他なく男女の関係に至ってしまいました。
私は自らの心に隙があったからこそ、被告と男女の関係になってしまったのだ、と自らを厳しく責めました。不貞を働いてしまった自分が恐ろしく、主人に申し訳ないという後ろめたさから、A市に帰ったあともしばらく仕事が手につかない有り様でした」
【山崎と男女の関係ができた後について】
「しかし被告は、そのような私におかまいなく、毎日、電話をかけてきました。被告はまるで恋人にでも話すかのように、被告特有の猫撫で声で毎日、私に電話をかけてきたのです」
「私は被告からの電話があるごとに『主人には申し訳ない、これではいけない』と思いながらも、いつしか被告の電話を心待ちするようになってしまいました。
この私の心理状態を、言葉にするのは大変難しいことです。今でもどうして私が被告に惹かれていったのか、自分でもよく分からないというのが正直なところです。ただ言えることは、私にとって被告は、私がそれまで出会ったことのない男性であったということです。被告は正信会の中にあって非常に重要な人物であり、なおかつ創価学会と戦う闘士であり、私にとっては正に雲の上の存在だったのです。その被告から直接、創価学会や正信会に関する話を聞くことができるだけで、私は何か優越感に浸るような感覚を覚えたのも事実でした。さらに被告の都会的な饒舌で巧みな会話、強引なまでの行動力、毎日、こまかにかかってくる電話等々は、私を惹きつけるに充分な要素であったのかもしれません。それまでの私の人生において、私は被告のような男性に出会ったことはなく、被告への興味とともに知らず知らずのうちに被告への思いが募っていったのは確かなことでした」
【その後の山崎との関係について】
「やがて私は被告の『会いたい』という執拗な求めを拒否できなくなってしまいました。被告と男女の関係を持ってしまって1ヵ月くらいして後、私は被告の求めに応じて、上京しました。その後、被告に求められるままに、月に一度ぐらいは上京し、被告と密会を重ねることになりました」
「しかしながら、被告とつき合った約8年の間のほとんどは、被告の求めに応じて、私が東京へ行って被告と会っておりました。つき合い始めた当初、被告は私を日本料理店や高級バーなどに連れていってくれましたが、しばらくすると、私がわざわざ上京しても、被告の行きつけのマージャン屋ばかりに連れて行くようになり、私はただ被告が賭博マージャンに興じている後ろ姿を眺めてばかりいるようになりました。被告の賭博マージャンが終わると、大抵、被告自らが予約したホテルへ私を連れて行き、その夜は同宿したのです。なお、被告は、ホテルの支払いや食事代を、当然のことのように私に支払わせておりました」
●山崎との関係が破綻するまで
【山崎との最後の関係について】
「被告との関係は、被告が創価学会恐喝裁判で3年の実刑判決が確定して収監される数日前である平成3年2月21日までつづきました。最後の密会の場所は東京の赤坂プリンスホテルでした」
【山崎と別れられなかった理由の一つについて】
「私は、被告との関係ができてからも、いつも『主人に申し訳がない、被告と会うのはやめにしよう』と思っておりました。しかし、私には被告との関係を清算できずにいた理由がありました。それは被告に大金を貸してしまったために、お金を返してもらわないうちには被告との関係を清算できない状態に陥ってしまったからでした。
今にして思えば、被告が私に近づいてきたのはお金が目的だったと思います」
【陽子の悩みについて】
「被告に貸したお金は主人と私が、汗水流して働いたお金です。そのお金を、私一人の勝手な判断で被告に貸してしまっていいのか、私は被告に送金するたびに、あるいは被告に現金を手渡すたびに悩み苦しみました。主人に申し訳ないという気持ちが、いつも私を苛んでいました。
私は、事あるごとに、これ以上、被告にお金を貸すことはやめよう∞被告との関係を清算しよう≠ニ、幾度となく思いました。
しかし、今思えば本当に愚かなことですが、『これまで二人で丹精こめて育てた木にやっと花が咲こうとしているのに、自分の手で切り倒そうとするのか』とか『僕を信じることだ。〈走れメロス〉を読め』という被告の言葉や私との関係継続を哀願する猫撫で声の言葉を聞いているうちに、ついには被告への貸金に引きずられる形で被告との関係をずるずると続けてしまったのです」
【仮出獄後の山崎の様子について】
「平成5年4月、被告は2年数ヶ月服役し栃木県にある黒羽刑務所から出所してきました。出所してすぐに、被告から数度、電話があり、その電話では、被告は、『今度から、まっとうに仕事ができるから、一億円ぐらいすぐ稼ぐよ。そしたら今まで借りた金は返すよ。何も心配しなくていいよ』と言っておりましたので、私もややホッとした気持ちでしたが、しばらくすると被告からの電話は全くなくなりました」
【山崎からの別れの通告について】
「やっと被告に電話が通じたのは、平成6年8月のことでしたが、そのとき私は、被告から『あんたとは、もう逢いたくない』、『俺は刑務所の中で、どうしたらお前とわかれられるか、そればっかり考えていたんだ』、『もう、お前の顔なんか見たくもない』などと言われてしまいました」
【夫・鈴木良雄への告白について】
「平成11年12月末ころ、私はついに主人に被告との不貞関係や被告への貸金のことを告白しました。
私の話に主人は、しばらくはまったく意味がわからない様子で、呆気に取られておりましたが、やがて普段はおとなしく優しい主人の顔が、みるみるうちに紅潮し形相が険しくなっていきました。私の話が終わるか終わらないかの時、主人は炬燵の天板に手をかけ、思いっきり天板をひっくりかえして、『お前ら二人ともまとめて殺しちゃるわい!』と大声で叫ぶと、私の顔をジッと睨み据え、何度も謝り続ける私を無視して家の外に飛び出して行きました」
「毎晩、お酒ばかり飲んで、ろくに食事もせず、みるみるうちに体重が減っていきました」
●陽子からの告白を受けた夫・良雄はそのとき
この日、同じく大分地方裁判所に提出された原告・鈴木良雄の「陳述書」の中には、良雄が長年、陽子の身体を気づかっていたことが綿々と綴られている。そののち良雄は、伝法寺住職・浜中和道より山崎正友を紹介されとき、
「この方があの山崎正友さんか」
と思ったことを述べている。
そして平成十一年十二月末、自宅の居間にある炬燵に入りながら陽子から告白を受けたときのありさまを次のように述べている。
「陽子は、話しづらいようでしたが、やがて意を決したように、陽子が被告と昭和58年ごろから平成3年ごろまで男女の関係にあったこと、被告に請われるまま二千数百万円ものお金を被告に貸してしまったこと、その後被告がそのお金を返さないので裁判を起こしたところ、被告は陽子から借りたお金は全部カンパだから返す必要がないと言い出して、裁判所でも被告の言い分が認められてしまい結局、貸したお金は返ってきそうもないこと、などを涙を流しながら、私に話しました。
私は、突然の話で、しかも話の内容も内容ですから、カーッと頭に血が上り、思わず炬燵の天板に手をかけ、天板をひっくり返してしまいました。陽子が私を裏切って他の男と深い関係になって大金まで取られてしまったことに対して、私は強い憎しみを感じ、『2人ともまとめて殺しちゃるわい』と、大声で怒鳴りつけてしまいました。
私はこれ以上、陽子の顔を見ていると、本当にその時、陽子に暴力をふるってしまいそうでした。私は病弱な陽子に対して今まで一度も暴力を振るったことはありません。しかしこの時ほど、陽子を殴り飛ばしたい衝動にかられたことはありませんでした。私はその衝動を必死でこらえ、ついにいたたまれなくなり外へ飛び出しました。その後は、近所の酒場で酒を飲みました。普段、どんなに酒を飲んでも泥酔したことのない私でしたが、この日ばかりは意識がなくなるほど酒をあおりました。家に戻ったのは朝方だったと記憶しています」
陽子の告白を聞いたあとの良雄の様子は、
「私は陽子から被告との関係を聞いた後、毎日、酒びたりの生活になってしまいました。食事はまったく喉を通らなくなりました。食事を摂らず酒ばかり飲んでいたので、短期間のうちに体重は15キロほど激減しました。
私は毎晩毎晩、近くの酒場で酒を飲みました。いつしか酒の量は一晩で1升5合ほどにもなっていました」
というものであった。
この後の二人が別居したことは先述したとおりである。良雄は、被告・山崎正友に対する気持ちを、「陳述書」の最後で次のように述べている。
「私という夫がいることを知っていながら、陽子と肉体関係を結び、その陽子から二千数百万円という大金を騙し取った被告を私は決して許すことができません。私が受けた精神的ショックは、とうてい口では説明できません。私は、今でも陽子を騙した被告の舌をペンチで引き抜いてやりたい心境であり、できることならこの手で被告の身体を八つ裂きにしたい思いです」
●山崎が弁護士資格を失った理由
山崎は平成十三年七月五日付で大分地方裁判所に「陳述書」を提出した。その中で山崎は、昭和五十五年四月に妻や子どもたちと別れた理由を述べている。山崎によれば、当事者間に離婚する理由はなく、自分が創価学会と戦うために、
「妻や娘たちにそのとばっちりで災難がふりかからぬようにと考え、話し合って合意の上離婚したのです」
ということだ。
さらには、創価学会と戦うという「自分の信ずる道を通そうとした」ために、
「私は、昭和五十六年、弁護士の職を失い、又、一切の財産も、人間関係も失いました」
と述べる。山崎は続けて創価学会を批判し、果ては「私は創価学会の迫害と戦い」とみずからを美化するのである。
ことわっておくが、山崎が弁護士を失職したのは、昭和五十四年十月、創価学会の顧問弁護士でありながら、創価学会に対して脱会者より特別財務の返還を求める訴訟を起こさせたことにある。
山崎はこの裁判の「訴状」を自分の法律事務所で作らせていた。その「訴状」の中に「正」という文字が使われていた。その「正」という文字の一部が欠けていたのだ。当時、弁護士が書類を作るために使われたのは、和文タイプライターであった。山崎の事務所にあった和文タイプライターの「正」という文字が一部、欠損していたことが山崎にとって致命傷となる。山崎が他の裁判書類で作った書類も、当然のことがながら「正」という文字の同じ部分が欠けていた。
山崎が創価学会の顧問弁護士でありながら、裏に回って創価学会に対する訴訟を起こさせていたことが、この「正」という文字の一部が欠けていることによって証拠づけられた。
このため、創価学会より東京弁護士会に山崎の「弁護士懲戒申請」がなされた。山崎が弁護士を辞めたのは、懲戒の裁決が下る直前であった。山崎は抵抗の余地がないと見定めてみずから東京弁護士会を退会し、弁護士資格を失ったのである。昭和五十六年四月のことであった。
このように、裁判官が事情を知らないのをいいことに、山崎は、この裁判が自分の不倫と金にまつわる慰謝料請求訴訟であることすら忘れ去っているかのような陳述を続ける。そしてまた、従来の主張を飽きもせずに繰り返すのである。
「陽子が交際を求めてきても、夫が居ることを知っていましたから、それを理由に、私ははじめは断ったのです。
しかし、陽子は 『結婚しているといっても今は形だけだ。私は何をしようと自由だし、決して迷惑はかけない』
と断言し、私は、それならと 『大人の付き合いで、お互いを拘束しない』
という条件で、交際することになったのです」
「ちなみに、私は、一生を通じて、陽子のような有夫の女性と交際したことは他に一度もありません。
当時、他に適当に付き合っていた女性もいたので陽子と交際を持つ必然性もなかったのです」
そして、山崎は悪質な開き直りをする。
「累計で三千万円近い金を支出するなど、正常な関係の夫が居る妻の行為とい(ママ)ては、とうてい考えられません」
●二十代のモデル、短大生とも関係
平成十三年七月十二日、第七回口頭弁論が大分地方裁判所でおこなわれた。
最初に、被告・山崎正友に対する尋問がおこなわれた。原告・鈴木良雄の代理人弁護士は、まず昭和五十八年六月から平成三年二月二十五日の山崎の収監直前まで、山崎と陽子の間で八年間の不貞関係が続いたことについて詳細に問い質した。その上で原告代理人は山崎に対して、当時、陽子に夫がいることを認識していたかと尋問し、山崎はその認識があったことを認めた。
その後一転、原告代理人は山崎が陽子と関係を持った当時のことについて山崎を問い詰める。山崎のこれまでの主張によれば、陽子と関係ができた当時、山崎には「二十代のモデル」と「短大生」という二人の女性がいたという。山崎がこのようなことを主張してきたのは、自分がとりたてて陽子と肉体的関係を結ぶ必然性がないことを示すためである。
原告代理人は、この若い女性の存在について問い詰めていく。
「原告代理人 あなたの第2準備書面の8ページ、陽子さんと関係ができた当時、あなたは20代のモデルの女性及び短大生と交際をしていたと、こうおっしゃってますね。
山崎 はい。
原告代理人 あなたが言っているこれらの女性との交際は、男女の肉体関係を伴った交際とお聞きしていいですか。
山崎 そのとおりです。
原告代理人 20代のモデルの女性というのは、お名前は何と言われますか。
山崎 ちょっと名前は、本人とこの件とは直接関係ございませんので、本人の名誉のために。
原告代理人 名前くらい言ってもいいんじゃないですか。
山崎 いや。
原告代理人 言えないですか。
山崎 はい。
原告代理人 20代のモデルの女性というのは、いつごろからあなたとの交際が始まったんですか。肉体関係という意味ですが。
山崎 57年ころからだと思います。
原告代理人 どういうきっかけで交際が始まったんですか。
山崎 友人の紹介で知り合って、その後、何となく。
原告代理人 友人の名前は何と言われますか。
山崎 シマズという男です。
原告代理人 下の名前は。
山崎 覚えておりません。
原告代理人 何歳くらいの方ですか。
山崎 私よりは10歳くらいは下だと思います。
原告代理人 どこに住んでおられる方ですか。
山崎 東京だと思います。今でも東京だと思います。
原告代理人 あなたとどういう御関係の人ですか。
山崎 私が昭和49年から52年ごろまで、ちょっと事情があって銀座のクラブ等に出入りしていたときに知り合った、そのクラブの、何というか、幹部の男性だったと思います。
原告代理人 その20代のモデルの女性との交際は、いつごろまで続いてたんですか。
山崎 2年くらいです。
原告代理人 先ほど57年とおっしゃったから、59年ごろまで続いたと聞いていいですか。
山崎 そうですね。
原告代理人 名前は言えないですか。
山崎 はい、申し上げられません。
原告代理人 短大生のほうは、お名前は何と言われますか。
山崎 それも、本人が今の境遇に差し支えが出てはいけませんので、名前は申し上げられません。
原告代理人 この短大生という方は、いつごろから交際が始まったんですか。
山崎 モデルの女性よりは半年ばかり後だと思います。
原告代理人 どういうきっかけで交際が始まったんですか。
山崎 これもだれかの紹介で、ちょっと紹介されたいきさつはよく覚えてないですが、気が付いたら、私の周りで、なんかいたというような感じで。
原告代理人 気が付いたら、いた。
山崎 懐かれて、そういう感じで。最初、たしかきっかけがあって紹介されたんですが、その辺のところはよく思い出しません。
原告代理人 いつごろまで交際は続いたんですか。
山崎 その人はちょっと長くて、断続的に、まあずっと、しょっちゅうというんじゃないんですが、間に二、三年あって、またたまに会ったときということもございましたから、いわゆる付き合いという関係では、1年半くらいだったと思います。それでまた、61年くらい過ぎてから、また二、三か月付き合いがあったというか。
原告代理人 はっきり言うと、肉体関係があったということでしょう。
山崎 はい。
原告代理人 57年ころからモデルの女性と交際が始まったとおっしゃって、短大生は半年くらい後とおっしゃったから、57年か58年ごろから交際が始まって、1年半くらい続いた。
山崎 はい。
原告代理人 61年過ぎて、また単発的に会うことがあったということですか。
山崎 はい。
原告代理人 この短大生も、お名前は言えないということですね。
山崎 そうです。
原告代理人 あなたがおっしゃっていることが本当かどうかということを確認する意味でも、山崎さん御自身も書面で主張しておられることでもあるし、是非ともお名前を聞きたいんだけれども、できませんか。
山崎 それは申し上げられません。
原告代理人 名前も分からないということであると、そういう女性がいるかどうかということを疑わざるを得ないことになりますけれども、言えないですか。
山崎 その人の人生にかかわることであるし、現在置かれている境遇から、何かそういう名前を例えば法廷で出すと、ある組織がそれをずっと捜していろいろなことをしますので、必ず障害が出ますので、そういうことがなければ話してもいいですが、そういうおそれがありますので、名前を挙げることは控えさせていただきます」
ここで原告代理人である弁護士が、陽子と争われた一千万円返済の訴訟で山崎が裁判所に提出した「陳述書」(平成九年八月)を示し、尋問を続けた。
「原告代理人 48ページ終わりから5行目、『私はそれまで年上の女性と付き合ったことはなく、遊びの相手も20代の若い女性ばかりでした。それも刑事被告人となってからは慎んでいました』と述べています。これは貸金の事件のときにあなたがお書きになった陳述書ですね。
山崎 はい。
原告代理人 あなたが刑事被告人となった、つまり、起訴されたのはいつですか。
山崎 56年2月です。
原告代理人 2月25日ですね。
山崎 はい。
原告代理人 そうすると、今読んだ文章は、刑事被告人となってから、昭和56年2月以降は、20代の女性との肉体関係を伴う交際はなかったという意味じゃないんですか。
山崎 慎んでいたということでありまして、なかったというふうには書いておりません。
原告代理人 慎んでいたというのは、ないわけじゃないわけですか。
山崎 はい。
原告代理人 あるけれども、回数を減らしたということですか。
山崎 回数というか、いろんな意味で。
原告代理人 いろんな意味というのはよく分かりませんが。
山崎 少し慎んだということです。言葉どおりに取っていただいて結構です。
原告代理人 慎んだの意味がはっきりしないから、20代の女性との肉体関係を伴う交際も、56年2月以降もあるにはあったと聞いていいですか。
山崎 そうです。
原告代理人 そういう、慎んでいたですか。
山崎 そうですね。その2人以外にはありません」
●山崎の主張は矛盾だらけ
さらに良雄の代理人弁護士は、同じ「陳述書」を示し、追及の手を緩めない。山崎は裁判のつど、ウソの言い訳ばかりしているから、矛盾する箇所が随所にある。原告代理人は、山崎の書いた「陳述書」の、
「私の立場では周囲に隠しごとはできず、従って原告とのつき合いも、身近な友人にはオープンにしていたのです。他につき合っていた女性がまったくなかったことは、だから周囲の人達が良く知っています」
という箇所を淡々と読み上げ、山崎に対し、
「ほかに付き合っていた女性がないと書いてありますよ」
と追及する。山崎はそれに対し、
「はい」
と答えたが、往生際は悪い。
「原告代理人 そうすると、全体を一体として見るとき、昭和56年2月以降は、肉体関係を伴う交際はなかったというふうな意味じゃないんでしょうか。
山崎 そういうことではありません。何事も時差ということがありますから、鈴木さんと付き合いするようになったのが58年6月以降です。それから1年くらいは、手探りみたいな状態というか・・・。
原告代理人 そういう陳述書の趣旨だとお聞きしましょう。とは言えニュアンスは違いますよね。慎んでいたという貸金のときの陳述書と、堂々と20代の女性と短大生とも交際していたという今回の陳述書と。
山崎 堂々ということではありません。
原告代理人 しかし、あからさまに言ってるでしょう。
山崎 それは、この裁判になったから、事実関係を、殊に焦点が男女の問題になったもので、当時の私のそういう状況というものをはっきりさせる必要があると思って申し上げたんであって。
原告代理人 貸金訴訟のときにはどうしておっしゃらなかったんですか。
山崎 貸金のときは、お金の貸し借りが問題ですから、そのほかのことは、言われることに対する対応みたいな形でしか申しておりません」
原告代理人が、当然の帰結として、以下のように山崎に聞いた。
「身を潔白に保ってきちんと自分を持していたというふうな、聖人君子のように読めるけれども」
これに対する山崎の答えは、
「そういうことではありません。私も男ですから、聖人君子だということは、今までの人生で一度も主張したことはありません」
と開き直る。またも原告代理人が山崎の書いた以下のくだりを読み上げる。
「原告とのつき合いになっても、私は、離婚のいきさつをはなし、『こうした事情であるし、裁判が終わったら復縁するかもしれない』」
そして原告代理人は山崎に、
「こういうふうに陽子さんに告げたと述べておられますね」
と問い質し、追及する。
「原告代理人 この当時、本当に奥さんとよりを戻すおつもりはあったんですか。
山崎 できればそういうふうになりたいなというふうに思っておりました。
原告代理人 そうすると、あなたが今回の訴訟で述べておられることがもし真実なら、一方で奥さんとよりを戻すことを考えながら、他方で陽子さんを含めて3人の女性と肉体関係を伴う交際があったと、こうなるわけですか。
山崎 そうですね、はい。
原告代理人 本当に短大生とかモデルとかいたんですか。
山崎 おりました。
原告代理人 陽子さんと最初に肉体関係を持つ際に、この短大生とかモデルの女性ともあなたが交際しているということは、陽子さんに話したんですか。
山崎 話しておりません。
原告代理人 なんで話していないんですか。
山崎 そういう女性たちの付き合いというのは、東京という都会の中で、そういう何というか、風俗の中で知り合った人たちで、さして深い、そういう関係が先にどういうことになるのかじゃなくて、なんとなしになったものですから、それで、会うのも自由だし会わないのも自由、別れるのも自由というお付き合いでしたから。
原告代理人 あなたの今読んでいただいた箇所では、あなたの言い分としては、陽子さんのほうから迫られたときに、いやいや、おれには妻との復縁も考えているし、闘う相手もいるんだと、赤裸々に自分を吐露するわけでしょう。
山崎 はい。
原告代理人 その中で、どうして女性関係のこともはっきり言わないんですか。
山崎 それは関係というほどのものでもないと思っていたからです。それは、そういうときに会って、気分が合ってそういう関係になったけど、それから何回か付き合いがあったけど、別れるときも何となく別れてしまったという関係ですから。
原告代理人 そうすると、陽子さんと関係ができるに際して、これらの女性のことを言わなかったのは、さほど重要に考えていなかったからだという意味なんですか。
山崎 そのとおりです。
原告代理人 あなたのお生まれは、昭和11年11月ですね。
山崎 はい。
原告代理人 昭和58年当時、47歳になりますか。
山崎 はい。
原告代理人 20歳代の年若い女性が、父親ほど年の離れているあなたと交際していたというわけですか。
山崎 はい。
原告代理人 20代のモデルの女性や短大生というのは、あなたにカンパをしてくれていたんですか。
山崎 そういうことはありません。
原告代理人 モデルや短大生と交際する際の食事代やホテル代、これはだれが払っていたんですか。
山崎 食事代ホテル代は私が払いました。
原告代理人 1回デートをすると、おおむね幾らくらいかかってましたか。
山崎 そうですね、1万円とか1万5000円とか。
原告代理人 ホテル代と食事代込みで。
山崎 そんなものでしょう。
原告代理人 昭和58年当時、あなたはそういう1回の交際で1万から1万5000円を出せる経済的な状態だったんですか。
山崎 なかなか苦しいけれども、成り行きでそういうふうになったというしかありません。
原告代理人 苦しい状況は苦しい状況なんですか。
山崎 はい、それほど楽な状況ではありませんでした。その後、さらにだんだんきつくなるんですが、ちょうどその境目の辺りですね」
この山崎の証言が事実であったとするならば、山崎は五十歳に近い鈴木陽子から多額のカンパを受け取り、親子ほど年の違う二十代のモデルと短大生と一回に一万円か一万五千円を使いながら交際していたということになる。山崎は、陽子のほうから関係を迫ってきたという根本的なウソを取り繕うために、二十代のモデルと短大生との交遊があったことをことさらに強調したかったのであろうが、それは山崎の不道徳さをさらけ出しただけであった。
●山崎のおかした決定的なミス
山崎はその後の証言の中で、正信会から昭和五十八年当時、五百万円のカンパをもらったという事実を認める。
原告代理人は、山崎が陽子と関係を結んだ目的について山崎に問い質していく。
「原告代理人 少なくとも、経済的に余裕のある状態じゃなかったんですね。
山崎 そんなに余裕はありません。
原告代理人 そういう状況の中で、昭和58年1月ごろ陽子さんと会って6月に関係ができる、こうなるわけですか。
山崎 はい」
陽子と肉体関係をもった時期、山崎に経済的余裕がなかったことを再度念押しされた。そこでさらなる追及がおこなわれる。
「原告代理人 非常にお金持ちだと紹介されたんでしょう。
山崎 はい、豊かな人だと、力のある方だという言い方でした。
原告代理人 力というのは、経済的な力という意味ですね。
山崎 そうですね。
原告代理人 そういう紹介を本当にされたかどうか別にして、少なくともあなたの御主張からすると、お金持ちの女性だということは、紹介された時点で分かっているわけですね。
山崎 そうですね。
原告代理人 あなたは陽子さんとの交際期間8年間を通じて、総額で幾らくらいの支援をしてもらったんですか、陽子さんから。
山崎 細かいことは覚えてませんが。
原告代理人 大まかな数字でいいですよ。
山崎 支援を受けたのが、2000万円足らずだと思います」
このように山崎は、陽子から多額の金を受け取っていたことを認めた。
「原告代理人 経済的に困難な状況の中で、裕福な陽子さんからの支援をねらって、あなたのほうから近づいていったというのが真相じゃないんですか。
山崎 そういうことは絶対にありません。
原告代理人 とは言え、経済的に余裕が少ない、もっと言うならほとんどない状況で、モデルの女性とか短大生と交際できるんですか。
山崎 できました、その時期は」
その後、さまざまな角度から尋問がなされ、二人が最初の肉体関係をもった状況について、原告代理人が山崎を再度、問い詰めた。
「原告代理人 あなたと陽子さんと初めて関係ができたときのことをお尋ねしますが、関係ができたホテルは何というホテルですか。
山崎 多分帝国ホテルだったと思います。
原告代理人 ホテル代はだれが払いましたか。
山崎 ・・・鈴木さんがお払いになったと思います。
原告代理人 予約はだれがしましたか。
山崎 よく覚えてません。
原告代理人 陽子さんは東京のホテルなんか知らんでしょう、田舎者だから。
山崎 でも、予約ということをしなくても、電話を入れて部屋が空いてますかというふうに聞いて。
原告代理人 それを予約と言うんでしょう。
山崎 その日になって。
原告代理人 飛び込みでということですか。
山崎 はい。
原告代理人 ホテル代については、あなたが払ったという陽子さんの記憶だけれども、どうですか。
山崎 僕は払っておりません。その点、ちょっと遠い昔のことで細かいことを思い出しにくいんですが、記憶違いがあるかもしれません。
原告代理人 あなたの主張では、陽子さんが積極的に関係を迫ってきたということですか。
山崎 そうですね。終始彼女が積極的でした。
原告代理人 女性である陽子さんのほうから、男性であるあなたに迫ったということですか。
山崎 迫るという言い方がいろいろ誤解を生むといけませんが、切々と慕情を訴えるというか、そういう感じのことでしたから。
原告代理人 ましてや、あなたの話にも出てくるとおり、ちょっと気の毒だけれども、陽子さんは人工肛門なんでしょう。
山崎 はい。
原告代理人 人工肛門というのは、裸体になった場合には、外からすぐ分かるわけでしょう。
山崎 はい。
原告代理人 そういう肉体的に欠陥がある女性が、迫ったというわけですか。
山崎 そうですね。
原告代理人 あなたのほうから迫ったんじゃないんですか。
山崎 ではありません。
原告代理人 陽子さんはこのとき生理中だったんですよ。そういう生理中の女性が男性に迫るかな。
山崎 それもちょっと私は覚えてません」
このあと、山崎と陽子の関係ができた昭和五十八年六月当時、鈴木良雄・陽子夫婦が事実上、別れていたという山崎の主張は、次々と崩されていった。その後、尋問は後半へと移る。
尋問の後半、裁判官は、この山崎への証人尋問にあたり本人が事前に裁判所に提出していた「尋問事項書」に従って山崎に事実関係を質した。これは山崎に代理人弁護士がついていないためにとられた処置である。山崎は前もって自分が用意した「尋問事項書」に従い裁判官に尋問をしてもらい、自分にとって有利な証言をしようとする。だが、ここでも山崎は決定的なミスを犯す。それは、山崎と鈴木陽子との連絡方法についての証言である。
山崎は、陽子に電話をするときに、陽子のほうから「サインを決めてくれ」と言われたと述べた。山崎にしてみれば、そのことによって陽子が積極的に山崎にアプローチしたことを印象づけたかったものと思われる。しかし、それがアダになる。山崎は、
「信号を1回か2回かというようなサインをしたり、そうした場合は彼女が必ず電話を取るからというような約束をして、そういう電話でのやり取りをしておりました」
と述べた。山崎は陽子との間でこのような取り決めをし、まず山崎が一、二回電話のベルを鳴らしていったん電話を切り、そののち電話をかけたとき、陽子が電話に出るという取り決めがあったことを認めた。だが、これは大失態であった。なぜなら、山崎がこれまで主張してきた、良雄・陽子夫婦の関係が事実上破綻していたということをみずから覆したに等しいからだ。夫婦関係が破綻し別居までしていたのなら、そのような秘密の連絡方法で電話をする必要がないことは、誰の目にも明らかだった。
山崎は裁判官にわざわざ「尋問事項書」を前もって渡し、尋問をしてもらい証言したのに、好んで自分から墓穴に転がり込んでしまったのである。山崎のこの証言は、原告・鈴木良雄に慰謝料を請求する法的な根拠を与えた。
この後も山崎に対する尋問が続いたが、原告代理人はこの特殊な電話のかけ方について念を押している。
「原告代理人 電話の件をお尋ねしますけれども、2回、あなたのほうから電話を家に入れて、呼び鈴を2回、数回鳴らして切るという方法があるのはあったわけですね。
山崎 いや、数回じゃなくて、まず、ツーコールして。
原告代理人 あなたのほうから。
山崎 はい。それから、切ると。それから、もう1回かけたら彼女が出ると、そういうふうに彼女のほうから言いましたので。
原告代理人 そういうことがあるのはあったわけね。
山崎 はい、ありました」
●陽子にとっては「雲の上の存在」だった山崎
この被告・山崎に対する尋問のあと、証人として出廷した原告・鈴木良雄の妻である陽子が証言する。そこで陽子が山崎と関係を結んだ当時、山崎に対してどのような思いをもっていたかということが原告代理人によって確かめられた。
「原告代理人 あなたは、昭和58年1月以前において、山崎正友という名前を御存じでしたか。
陽子 はい、知っていました。
原告代理人 どのような機会に、山崎正友という名前を聞いたことがあったんですか。
陽子 正信会の機関紙や週刊誌で知っておりました」
ここで原告代理人が、証拠として提出された正信会の機関紙『継命』を示す。
「原告代理人 昭和57年10月1日付けの継命で、山崎正友さんの名前で論文が掲載されていますね。
陽子 はい。
原告代理人 昭和58年1月1日付けの継命ですが、この下のほうには、山崎さんが写真入りで、また論文を書いておられますね。
陽子(うなずく)
原告代理人 こういう継命の記事で、山崎正友さんという名前を御存じだったわけですね。
陽子 はい、そうです。
原告代理人 そのほかに、週刊誌でも見たことがあったということですか。
陽子 はい、そうです。
原告代理人 被告と知り合う昭和58年1月以前には、あなたにとって被告はどういう存在だったんですか。
陽子 雲の上の存在という感じでした。
原告代理人 身近な人ではないわけですか。
陽子 そうです。
原告代理人 当時、山崎さんは、創価学会に対する恐喝容疑の刑事裁判中ですね。
陽子 はい。
原告代理人 この裁判については、正信会としてはどのようにとらえていたんでしょうか。
陽子 創価学会から冤罪を着せられて、正信会と一緒に正義の味方という感覚で受け取っておりました。
原告代理人 じゃあ、刑事裁判というのも、山崎さんが悪いことをしたからじゃなくて、ぬれぎぬなんだと。
陽子 はい。
原告代理人 その中で、正義を証明するために闘っている人だと、こういう被告に対するイメージだったわけですか。
陽子 はい、そうです。
原告代理人 それは、正信会のみならず、その信者であるあなたも同じような認識だったと聞いていいですか。
陽子 はい。
原告代理人 そういうことから、雲の上の存在というふうな話になるんですかね。
陽子 そのとおりです」
昭和五十八年、山崎と陽子との関係ができた当時、正信会において山崎正友は創価学会を内部告発する正義の士≠ナあった。週刊誌をにぎわし正信会の機関紙『継命』にも登場する山崎を、陽子が「雲の上の存在」として受け取っていたのは至極当然のことであった。その山崎が、二度目に陽子と会ったあと、電話をかけてくるようになる。
「原告代理人 そんなふうに、毎日毎日、被告のほうから電話があって、あなたはどんなふうに感じましたか。
陽子 初めのうちは、ものすごく戸惑っておりましたけれども、毎日の電話で、だんだんと親しみを感じるようになっていったことは事実です。
原告代理人 そういう電話があって、あなたの認識としては、山崎さんはあなたに対してどういうふうに思ってくれているというふうに認識していましたか。
陽子 好意を持ってくれているんじゃないかなという感じでした。
原告代理人 それで、あなたのほうとしても、次第に電話を心待ちにするような気持ちになっていったと、こういうことになるわけですか。
陽子 はい、そのとおりです。
原告代理人 このころ、あなたのほうから山崎さんに電話をしたことはあったんですか。
陽子 いいえ、ありません。
原告代理人 そもそも、あなたはこの時期、山崎さんの電話番号を御存じなんですか。
陽子 いいえ、知っておりません。
原告代理人 あなたが山崎さんの電話番号を知ったのはいつごろでしたか。
陽子 それは、男女関係ができてから後です。
原告代理人 山崎さんと男女関係ができたのはいつですか。
陽子 58年の6月です。
原告代理人 それ以降に電話番号を聞いて知ったということですね。
陽子 はい」
●お金が目的で近づいていっただけ
この陽子の証言は、陽子のほうから迫ってきたという山崎の主張と対立するものである。
その後、原告代理人の尋問により山崎が陽子に迫っていった状況が、陽子の口から明らかにされる。
「原告代理人 陳述書によると、このとき、東京で2人で食事をしたり、その後、腕組みをされたり、あるいはタクシーの降り際にほお擦りされたりということがあっているわけだけれども、こういうことがあって、あなたとしては御主人に対してどんな気持ちでしたか。
陽子 申し訳ない気持ちと、後ろめたい気持ちで一杯になりました。
原告代理人 そういう気持ちで、あなたとしては、東京で山崎さんと2人で会うことについては、今後どんなふうにしようと思っていましたか。
陽子 山崎さんに直接、山崎先生とこういうふうにしてお会いするのは、これが最初で最後ですねと言って告げました。
原告代理人 つまり、東京でお会いすることは、もうないでしょうと、こういう意味ですか。
陽子 はい、そうです。
原告代理人 実際にあなたのお気持ちとしても、東京で山崎さんと2人で会うのはよそうと、こういうお気持ちだったというふうに聞いていいんですか。
陽子 はい」
だが、このような陽子の気持ちも、山崎の電話攻勢によって変わってきたという。
「原告代理人 ところが、この6月のときは、どうしてまた山崎さんと東京で2人で会ってしまったわけですか。
陽子 毎日の電話の中で、何かいつも隣にいて話すような親しみを感じて、だんだんそれが好意に変わっていったのではないかと、自分は今では思っております。
原告代理人 御主人に対する、すまないという気持ちはなかったんですか。
陽子 もちろんありました。
原告代理人 先ほどおっしゃったけれども、会うくらいだったらいいかなというお気持ちだったわけ。
陽子 はい、そうです。
原告代理人 そして、東京に行った日に、陳述書に記載されているような状況で男女の関係を持つに至った、こういうことですか。
陽子 はい、そうです。
原告代理人 山崎さんは準備書面の中で、肉体関係を持つ前に、あなたのほうから、夫との夫婦関係は全くなくなっており、自分は全く自由の身だという趣旨のことを強調したから関係を持ったんだと、こうおっしゃっているんだけれども、あなたは被告と肉体関係を持つに際して、御主人とあなたとの関係を話題にしたことがあるんですか。
陽子 いいえ、ありません。
原告代理人 御主人のことは全然話題に上っていないわけですね。
陽子 そうです。
原告代理人 被告と男女の関係になってしまって、どういう気持ちでしたか。
陽子 そういうことをしてしまった自分が信じられませんでした。そして、何か、そら恐ろしく、本当に夫には申し訳ないなという気持ちで一杯でした。
原告代理人 自分のやったことなんだけれども、自分が怖いと、そういう感じですか。
陽子 そうです。信じられませんでした。
原告代理人 このときのホテルは、だれが予約したんですか。
陽子 山崎さんです。
原告代理人 ホテルの代金は、だれが払ったんですか。
陽子 山崎さんです」
この後、陽子は夫の目を盗み山崎と密会した状況を証言している。原告代理人は、不貞関係の事実と陽子の心のありようについても聞いている。
「原告代理人 話を変えますが、結果的には、被告との不貞関係はいつごろまで続いたんですか。
陽子 平成3年2月21日までです。
原告代理人 そうすると、昭和58年6月から、平成3年2月まで、約8年間、男女の関係があったわけですね。
陽子 はい。
原告代理人 その間、山崎さんと、もう別れてしまおうと思ったことはありませんでしたか。
陽子 ありました。
原告代理人 別れなかったのは、どうしてですか。
陽子 それは、山崎さんがその都度、言葉巧みに、丹精込めてきた木に花が咲こうとしているのに自分の手で切り倒すのかとか、僕を信じることだとか、『走れメロス』を読めだとか、そういう言葉に私は引きずられるような感じで、ついつい付き合ってしまいました。
原告代理人 別れられなかった。
陽子 はい。
原告代理人 あなたが山崎さんと別れられなかったのは、今お聞きしたいろいろな甘言、甘い言葉で関係を続けようと言われたことのほかに、別の理由はありませんか。
陽子 それは山崎さんに大金を貸し続けてきて、それがまだ返ってないということも一つの原因です。
原告代理人 お金を貸してしまって、返してもらえないうちは別れられないと、こういうお気持ちもあったわけですか。
陽子 はい。
原告代理人 あなたが、山崎さんと付き合っていた期間、山崎さんには固定的な収入はあったようでしたか。
陽子 いいえ、私が知る限りでは、他人のカンパで暮らしていたと思います。
原告代理人 今にして思うと、山崎さんがあなたに近づいてきた理由、これは何だと思いますか。
陽子 お金が目的だったと思います」
原告代理人は、別居状態にある良雄に対し、いまどのような思いを持っているか、陽子に聞いた。
「原告代理人 最後になりますが、現在、あなたは御主人の良雄さんに対しては、どんなお気持ちですか。
陽子 主人に対しては、私はもう体が弱くて、生きるか死ぬかの病気を何度もやってきております。そのときに、主人はすべてのことを犠牲にして、私のために万全を期して、そして私の命を救ってくれました。そういう夫の恩を知りながら、恩を返すのではなく、徹底的に裏切って、うそをついて、そして、これはわびても許されるものではないと思っております。だから、夫に対しては本当に申し訳ない、本当に悪いことをしたなと思って、今も心を痛めておるところです。本当に、申し訳ないの一言に尽きます。
原告代理人 今、泣いていらっしゃるの。
陽子 すみません」
山崎によって肉体をもてあそばれ、老後のために夫婦で貯めた金まで失った。いまさらながらの涙ではあるが、その心情に法廷で傍聴する者もしんみりとせざるを得なかった。
●陽子と良雄の夫婦関係は破綻していなかった
しかし、法廷とは無慈悲なものである。加害者が被害者を尋問するという権利が留保されているのである。
その後、かつての愛人・山崎が陽子に対して、容赦のない反対尋問をした。
「山崎 それから、私があなたの自宅へ行ったことはないというふうに先ほど言われましたね、一人で。
陽子 はい。
山崎 私は、2度ほどあるように覚えているんですが。
陽子 それは、どういうときでしょうか。
山崎 1回は、私の歌をテープにとって聞いているんだけど、それがすり切れてよく聞こえないから、もう1回吹き込んでくれということで行ったことがあると私は記憶しているんですが。
陽子 いや、1人でお見えになったことはありません。
山崎 そのときに、あなたは、ちょっと記憶を喚起するために申し上げるけど、自分の寝室を見せて。
陽子 何ですか。
山崎 寝室、ベッドルーム。
陽子 冗談じゃありません。
山崎 ベッドルームに私を連れていって、ここで私は1人で寝ているんですという説明をされたように記憶しているんだけれども、そのとき裏の庭の様子とか、鮮明に僕の映像にあるんですけれども。
陽子 いいえ、ありません。そういうことは絶対にありません。
山崎 あなたのお部屋の映像というのが、私には焼きついているんだけど、それはないですか。
陽子 それは、焼きついていようがいまいが、ありません」
山崎はこの尋問をすることにより、陽子が積極的に自宅にまで山崎を誘ったこと、そして自宅に夫である良雄がいなかったことを立証しようとしている。だが陽子は全面的に否定した。
山崎の反対尋問のあと、裁判官も陽子に対して何点か聞いている。その中に注目される箇所がある。
「裁判官 交際期間中に、被告のほうから、金銭、その他物品関係で贈物を受けたことはありますか。
陽子 ありません。
裁判官 1度もないですか。
陽子 はい」
私も証言しておく。山崎はケチである。
この鈴木陽子に対する証人尋問のあと、原告・鈴木良雄に対する尋問がおこなわれた。このとき、良雄の「給料支払明細書」が示された。
その「給料支払明細書」によれば、良雄の勤め先は、陽子が一人住まいをしていたと山崎が主張する家のすぐそばであった。このことによって、山崎が陽子の家を訪ねたとき、良雄と陽子は別居中で、良雄は陽子と同居していなかったとする山崎の主張は破綻した。
なお山崎は、良雄と陽子が離婚を前提に別居していたという主張に具体性をもたせるため、良雄が大分県のA市ではなく別の県のB市で暮らしていたといったことまで述べていた。
山崎の、鈴木夫婦が別居していたという主張は、平成九年七月および平成十一年三月に撮影された写真によっても崩された。良雄の尋問の際、良雄と陽子の二人で仲良く写っている写真が示されたのである。
原告代理人は良雄にいまの気持ちを聞いた。
「原告代理人 あなたは今回別居する以前に、陽子さんと別居していた時期はあるんですか。
良雄 ありません。
原告代理人 一切ないね。
良雄 はい。
原告代理人 別居してまあ4か月くらいたったんだけれども、陽子さんと今後のことはどんなふうに考えてますか。
良雄 正直言って悩んでおります。別れようという気もありますが、自分たちももう高齢ですし、今更という気がして離婚まではちゅうちょしております。
原告代理人 最後になりますが、現在被告に対してはどんな気持ちですか。
良雄 人間として、男として、山崎は最低の男だと思います。絶対許すことはできません」
この後、山崎が良雄に対して反対尋問をするが、山崎に有利な証言は導き出されなかった。
原告代理人は、この七月十二日におこなわれた三人に対する尋問に先立ち、「第一生命保険相互会社」からの「回答書(原本)」を裁判所に証拠提出している。この生命保険会社からの「回答書」によれば、良雄は昭和六十年十二月一日に生命保険の契約をしていた。その生命保険は、良雄の死亡時に保険金として陽子が三千万円を受け取ることができるというものであった。
山崎がこの裁判が始まって以来、一貫して述べてきた良雄と陽子との夫婦関係が破綻していたという主張は、先の給料明細、二枚の写真、そしてこの生命保険の契約で完膚なきまでに崩された。
●なぜか、創価学会の関与をもちだす山崎
平成十三年九月十三日、第八回口頭弁論が大分地方裁判所でおこなわれた。このとき、原告代理人の弁護士は「準備書面3」を提出し、山崎が慰謝料を支払うべきであるという主張を、証拠を示しながら事細かに論及した。
山崎もまた同日付で「陳述書」を提出している。山崎は従前の主張を性懲りもなくおこなった。
「原告と陽子の間はこんな水臭い関係でしかなかったのであり、それでも夫婦というなら、それは、正に形ばかりのものでしかなく、陽子が、被告と男女関係を結んだからと言って損害賠償を求め得るような性質のものではあり得ないのです」
このように述べながらも、今回の慰謝料請求訴訟は「いやがらせ」であるとし、なぜか創価学会にも八つ当たり。
「こうした経緯をみれば原告も、陽子にそそのかされ、共謀して、被告をいじめるために本訴訟を提起したことはあきらかです。
更にそれをそそのかし、あやつる背後の勢力は、一連の訴訟を材料に私に対する狂気じみた中傷キャンペーンを展開しているのです。
批判者に対して卑怯な手段で攻撃を加え聞くにたえない中傷キャンペーンを一千万部をこえるメディアをつかって展開するのは創価学会の常とう手段です」
そして次のようにも言っている。
「被告について、原告らは、いろいろと虚構をかまえ、雲の上の存在≠ニか、著名人であったと言いますが、しかし、私は、当時、恐喝罪で起訴され、公判中の被告人であり、弁護士資格も、財産も社会的地位も一切失って、失意のどん底にあったのです。
尾羽打ち枯らした≠ニいう状況だったのです。だから、戦いの継続に他の人達の支援を得なくてはやって行けなかったのです」
さらに山崎は泣いてみせる。
「私が、以前弁護士をしていて、創価学会の首脳であった時は、或いは、雲の上≠フ人に見えたのかもしれないが、牢から仮釈放で出たもののすべてを失って尾羽打ちからした状況にあるのを見て、陽子はおそらく『自分に近いところに落ちてきた』と思ったのではないでしょうか」
この文のあと山崎は、みずからが煽動し、創価学会切り崩しの道具として使った正信会であるのに、自分は正信会に利用されたと言い、さらには自分がカンパを受けるのが当然だなどといった、この訴訟にはおよそなじまない論を展開する。
「正信会の機関紙に私の論文が掲載されたのは、正信会が、利用価値があると思ったからです。
彼等の本音は、『創価学会を切り崩し、信者を獲得するのに出来るかぎり利用しよう。利用価値がなくなれば放り出せば良い』というものだったのです。
そのように私に対して公言した幹部僧もいたのです。
私も、世間的には、刑事被告人とされたことに何となく憶したり恥ずかしいという気持ちがありながら、一方で、自分の身で果たすべき、宗教的使命に、身をささげなくてはならぬという使命観(ママ)から、我が身にむち打って戦ってきたのです。
世俗的にみれば、だれが好き好んで我が身を破滅に近い状況に追い込むでしょうか。
私は、日本の国や社会にかぎりなく危険を及ぼすおそれのある団体や人物に、使命観(ママ)からあえて立ち向かったのであり、それも現代風にいえば一種のボランティアだと思っています。
だからこそ、志を同じくする人々や支援してくれる人々の行為(ママ・正しくは「好意」)を受けて、カンパを収受し、活動費にあてたのです。
出家僧が、布施を集めて生身を養い、修業や布教活動を行うのと、同じだと思います。
創価学会の危険さ、有害さを世間の人々に警告する私の行為は自分自身のためではなく世のため、国のため≠ナあり、大乗仏教の教えにもとずく(ママ)行為だと私は信じています」
このようなことをダラダラ述べたあと、
「私と陽子の関係も、私の置かれていた状況等を考えれば、私が積極的に働きかけるわけがなく、陽子の積極的なアプローチがなければ、絶対におこり得なかったということは自分の信ずるものにかけて断言できます」
とまで言うのである。山崎が「信ずるもの」とはいったいなんであろうか。
●あまりに支離滅裂な山崎の主張
山崎のこの「陳述書」は、さらに続けて、とうてい理解のできない論理展開をする。
「本訴が始まってから、原告に対して、私は極端な表現をすれば、このような陽子と七年間私が付き合ったことで、その分、原告に対する陽子の風当たりが軽くなったのではないか、異常な性格、異常な支配欲が、私に向けられた分だけ、原告は救われたのではないか、そうだとすればむしろ感謝されても良いくらいだとすら思った時もあります。
そのくらい、私は、陽子との交際にこりごりしたのです。
原告をきずつけるという故意もなく、又、そう思わなかったことに過失もなかったと思います」
山崎の主張によれば、良雄と陽子は、山崎が付き合いはじめた昭和五十八年にはすでに離婚を前提に別居していたはず。陽子がどのような性格であれ、それに良雄が感謝する論理など、山崎の従前の主張からするならば、出てきようがない。山崎は饒舌ゆえに、第三者からみれば支離滅裂な論を書きなぐるのである。
それにしても、自分が不貞関係を結んだ愛人の夫に対し、「救われたのではないか、そうだとすればむしろ感謝されても良いくらいだ」という山崎の言い分は、あまりに暴論に過ぎる。人の心を斟酌する良心のカケラも見出すことはできない。
たとえば、山崎は「陳述書」において徹底した陽子の人格攻撃をおこないながら、返す刀で平気で次のように言ってのけている。
「陽子に対しても、私は、支援してくれたことへの感謝の気持ちはいつも持ち続けていました。
しかし、前述したようにその陽子の名で、およそ考えられないような卑劣な攻撃を受け、それを創価学会のメディアが大々的にとりあげて、私や私の仲間の運動を妨害する道具につかわれるという事態が生じたのでは、私としては、正面から争うしかなかったのです。
しかも、攻撃が、私一人ではなく、何の関係もない現在の妻に対してまで、いわれなき誹謗中傷という形で加えられたものですから、なおさら、私としては、戦うしかありませんでした。
そのために、私は、精神的にも経済的にも大変な犠牲を余儀なくされました。
かりそめにも付き合った女性と、低次元のいさかいをしなくてはならぬということはまことに恥ずかしいことで自分の至らなさを反省する他ありませんが、私には、さける手段がなかったのです。
陽子も、他に利用された結果、きづ(ママ)ついたのは自分だということは、よくわかったのではないでしょうか」
このあと山崎は、自分が顧問をしていた会社から解雇されたことなどを述べ、
「裁判にかかる費用は、ローン会社から借入てまかなってますが、借入額は相当にあります。
もちろん、たくわえも資産もありません。(住居は妻のものです。)」
と述べて裁判官の同情まで買おうとする。また、再就職もできないとも述べる。そして、以下のように「陳述書」を終えている。
「従って何らかの出損をともなう和解の提案は、現在、しようにも何も出来ません。もちろん万がいち敗訴ということになっても、私は支払う手段もありませんし、資産もありません」
●当然のように敗訴したものの、控訴審へ
平成十三年十月二十六日、大分地方裁判所において、ついに判決が下った。
「被告は、原告に対し、金300万円及びこれに対する平成12年4月3日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え」
山崎は敗訴した。
裁判所の判決文の中には、原告・鈴木良雄が山崎と陽子との関係を「容認」していない根拠の一つとして、次のようなことが示されていた。
「被告は、陽子宛に電話をする際には、電話の呼び鈴を2回鳴らして一旦電話を切り、再度電話をかけ直すという方法をとっていたこと」
山崎はみずからが用意し裁判官に尋問してもらった答えの中で、自分にとって決定的な不利な証言をしていたのだった。
山崎は、平成十三年十月二十六日に下された大分地方裁判所の判決について不服であるとして、同年十一月四日、福岡高等裁判所に控訴した。山崎は同年十二月二十二日、「控訴理由書」を同高裁に提出している。そこでも山崎は、原審(大分地裁)で主張したのと同様に、良雄と陽子が事実上の離婚状態にあった≠ニの主張を繰り返している。
控訴人である山崎は、その上で次のように主張する。
「その間の陽子の振舞いは、人目を忍んで≠ニいう状況ではなく、公然としており、控訴人の知人達の前でも、控訴人の愛人≠ニして隠そうともしなかった。
その間、諸範(ママ)の事情で困窮状態にあった控訴人に対して、陽子は、その一存で総計二千万円にものぼる経済的な援助もしている。
真実の夫婦関係にあれば、その一方が、とりわけ妻がそのような行動を長年つづければ相手が気付かぬということはあり得ない。
それにもかかわらず、被控訴人が、当時まったく気付かなかったというのは、二人の間に夫婦関係は事実上存在していなかったということに他ならない」
山崎は陽子に金を出させる際、将来、裁判になったときのことまで考えていたのであろうか。「控訴理由書」において展開する山崎のこの論理からすれば、女性が愛人である男性に多額の金を「援助」すればするほど、不貞の関係をもったその愛人の男性は免責されるということになる。もし山崎が、そこまで考えて金を出させたのだとすれば、筆舌に尽くしがたい非道ぶりである。
山崎はこの「控訴理由書」において、その後も陽子の側から関係を迫ったことを執拗に強調している。同時にその当時、山崎は「尾羽打ち枯らした状態」にあったとし、その原因は「宗教上の動機」であるとしている。山崎によれば、その当時の山崎自身の状況、そして陽子との関係ができた動機は、次のようになる(文中の「控訴人」とは山崎のこと。同じく「被控訴人」とは鈴木良雄のこと)。
「控訴人は、同じ信仰と志し(ママ)を持った同志の人達に支援を受け、闘争と人生を維持していたが、その中の、熱心な支援者の一人が陽子であった。
単なる同情によるのでなく、控訴人が当時受けていたのは、大儀(ママ)名分があっての上での支援関係であり、それ故にそれらの支援者の期待や信頼を裏切らぬよう出所(ママ)進退や身辺にも、充分注意しながら、生活していたのである。
控訴人は、他にも女性の支援者が何人か居たし、中には結婚を申し込まれた支援者もいたが、陽子以外の支持女性とそのような関係になったことは一度もない。常に用心して、いつも一歩距離をおくよう心がけていたのである。
控訴人が、そうした中で陽子とだけつき合うようになったのは、同情心とひとえに陽子の熱意と、自由である≠ニいう言葉を信じ、そして、それ以前の陽子の行動を見て、言うとおりの自由である女性≠セと判断したからである」
ここで注目されるのは、控訴人・山崎が「中には結婚を申し込まれた支援者もいた」と述べていることである。この山崎の主張は、大分地裁ではなされていない。立ち入って考えるならば、この女性は既婚だったのか未婚だったのか。いずれにしても山崎の言い分によれば、「自由である」陽子とのみ関係をもったという。
つまるところ山崎は、女性に対して責任を持つ、という意思が欠如しているのである。さらに突き詰めて考えれば、女性と関係をもったとしても、なんら責任を取らないことを当然視していることがわかる。それでいて多額の金は援助≠ウせるというのだから、弁を弄すれば弄するほど、山崎の心底の卑しさが浮かび上がってくるのである。
山崎は次のように第一審判決を批判する。
「被控訴人と陽子の共同不法行為を認定したのは誤りであり、仮に、不法行為が成立するとしても、それは、陽子の被控訴人に対する単独の不法行為であって、控訴人に何らの責任もない」
この「控訴理由書」の結論部分は、これまた山崎にしかできないような、誇大妄想としか言いようのない言い分となっている。
「これら訴訟の一連の経過を創価学会のメディアのみが一方的かつ大々的に報道して控訴人を中傷しつづけていること、陽子のこうした訴訟行為に、創価学会がいろいろと支援していることの事実があり長年にわたる創価学会と控訴人の抗争の歴史や、他の批判者、反対者に対する創価学会の同様の手口等からして、本訴が、控訴人に対する仕返しやいやがらせのために、理由のないことをデッチ上げて行った為にする訴訟であることは明白である。
こうした事実は、控訴人は被控訴人主張の不法行為の主張を争うために提示しているのであり、『不法行為が成立するからこうした事実はない』
という認定は、順位が逆でこれら事実の性質を見誤ったものである。
かかる不当な目的のために、訴訟という手段を乱用するのが創価学会の常とう手段であり、これは、司法制度に対する冒Bである。
こうした行為に対して、裁判所は、厳然とした姿勢を示すべきである」
ここでまた念を押さなければいけない。この裁判は、山崎が人妻と不貞をはたらいたことで、夫より慰謝料を請求され、訴えられたものである。不貞≠ニいう「不法行為」があれば、山崎は当然、夫に慰謝料を払うという単純な因果関係が生ずる。創価学会が「司法制度に対する冒B」をおこなっているという山崎の主張の根拠は、文章を何度読んでもさっぱり理解できない。
ましてや、山崎のいう、創価学会に対し「裁判所は、厳然とした姿勢を示すべきである」とは何を意味するのであろうか。自分がおこなった不貞行為に基づいて起こされている訴訟において、創価学会をどうからめようとも免責される事情など出てくるはずもない。
何をもって創価学会の名を出すのか――、山崎の意図は裁判官を混乱させることにあるとしか思えない。とはいえ、裁判官は混乱のしようもないだろう。
●人を裏切っても平気でいられる山崎
翌平成十四年二月十二日、鈴木良雄の代理人である弁護士が「答弁書」を提出した。その「答弁書」には以下のように書かれている。
「控訴理由書における控訴人の論旨は、整然としておらず不得要領な部分が多いけれども、察するに、もっぱら『控訴人と訴外鈴木陽子(以下〈陽子〉という)との不貞関係が始まった当時、被控訴人と陽子との婚姻関係はすでに破綻していた』という主張であると思われる」
山崎がくどくど書いた「控訴理由書」について、山崎の反対側に立つ弁護士が、山崎に代わって主張を整理してやらなければならないほどに、山崎の文書は論旨不明であったのである。
被控訴人・鈴木良雄の代理人は同「答弁書」において以下のように記し、山崎が「控訴理由書」で述べた、陽子の「単独の不法行為」であるとの主張を退けている。
「大阪で開催される正信会の信者大会終了後に、控訴人の求めに応じて上京した陽子に無理やり迫って男女の関係に至っているのである。しかも、控訴人は、陽子が熱心に信奉していた正信会が組織を挙げて支援し助力し共闘していた有力な名士で、週刊誌や正信会機関紙『継命』の中にもしばしば登場するような『雲の上の人物』的存在であり、かつ、陽子の意識の中に、控訴人自身がそのように映っていることを十分に認識しながら、陽子に対する自らの優越的地位を利用して陽子と肉体関係に至っている。特に控訴人が陽子から経済的援助を引き出そうとして陽子に接近している点において、控訴人の積極性、悪質性が伺われ、このような控訴人の積極性に鑑みれば、本件不法行為が『陽子の被控訴人に対する単独の不法行為』などとは言えないことは明らかである」
山崎は、同年二月十四日付で長文の「準備書面」を福岡高裁に提出した。四百字詰の原稿用紙に換算して約二十五枚。そこでも山崎は、饒舌の故に自己破綻している。
山崎は次のようにいう。
「巨大な団体と戦い、裁判闘争を続けている最中にあり、いわば、背水の陣をしいて、陽子をはじめ、同様なシンパの人々の好意に支えられることなくしては戦いも生活も継続出来ない立場にあった控訴人が、これらシンパの人達から軽蔑やひんしゅくを受けるようなよこしまな自殺的行為を出来るわけがない。
シンパの中には、女性も少くなく、もし不倫さわぎをおこしたりしたら、こうした女性からの支援は、すべて失われることは明らかである。
故に、控訴人は、陽子と深い付き合いになるについては、充分考慮し、何ら差し支えないと判断した上でふみ切ったのである。
そして、控訴人と陽子の交際は、決して金銭的支援が目的のものではないことは、支援がなくなった昭和62年頃から平成3年2月まで、4年余りもつづいたこと(全交際期間のおよそ半分である)」
ここにも、山崎の社会的に受け容れられない倫理観がはっきりと見えている。山崎は創価学会と戦い、シンパから経済的援助を受けていたが、そうした人たちにバレないことを「充分考慮」したうえで、「何ら差し支えないと判断した」から、陽子との関係をもったと堂々と述べているのである。そこには明らかな倫理観の欠如がある。
山崎は、自分を信頼した人たちを心情的に裏切ったとしてもバレなければよい、という判断基準をもっていることを、みずから吐露したのだ。
●正信会からのカンパで女遊び
さて、ここで山崎が大分地裁で主張したことを思い出してもらいたい。山崎は陽子と関係を結んだ昭和五十八年六月当時、二十代の女性モデルと女子短大生と肉体関係があり、端的にいうならば、女性に不自由していなかったとしていた。したがって山崎のほうから陽子を口説く必要はなく、それをもって陽子のほうから関係を迫られたことの根拠とした。
さらに、この親子ほども年齢が開いた二人のうら若き女性との交際について、山崎は一回あたり一万円から一万五千円の金を出費したと述べた。こうした行為が、創価学会と戦っている「正義の士」ということを信じ、山崎に対し経済的援助をしたシンパに対する裏切りだということも、山崎はまったく感じていないのである。
山崎は「準備書面」(平成十四年二月十四日付)で、陽子との関係を次のようにも述べている。
「陽子は、当時50歳に手が届こうとする年齢にあり、控訴人も同様である。分別ざかりであるし、欲望も若い頃ほどはげしくないから、それにおぼれて暴走するという状況でもない。
控訴人は、強大な敵対勢力と、そして国家権力と死闘をつづけている最中であり、いささかも付け込まれるすきを作らぬよう心がけて日常暮らしていた。同信の人達からは信頼を寄せられていたが、それは、タレントとファンのような軽薄なものではなく、迫害に耐えながら、自らの信ずる信仰の道をどこまでも貫くという運動の中での同志としての強い連帯感であった。
その中で、支援し、支援される関係を通じて、陽子は慕情をいだいたのであり、単なる色欲や気まぐれによる行為とは異なっていた」
ところが山崎は、福岡高裁で次に提出する平成十四年四月十一日付の「陳述書」において、これと真反対の、陽子を色情狂であるかのような女であったと主張するのである。とりあえずここでは、山崎が陽子と「同志としての強い連帯感」を持っていた、との主張をそのまま読んでおこう。
不倫が「信仰の道をどこまでも貫くという運動の中での同志としての強い連帯感」とされたのでは、当時、山崎が身を置いていた正信会、そしていま山崎が帰依している日蓮正宗、いずれにおいてもはなはだ迷惑なことであろう。
山崎は、「同志としての強い連帯感」で陽子と結ばれていたと強調していたのだが、この二月十四日付「準備書面」の最後のほうになると一転、陽子に対する罵りとしか思えないような文を連ねる。
「本訴等において露呈されたのは、自ら情熱を燃やした月日を楽しかった思い出として胸中にしまっておく、という、通常の女性とは異なった、自ら泥まみれになってまで、相手を醜い争いに巻き込み、社会的に抹殺して報復を行おうという並外れた嫉妬心≠ニ復讐心∞何が何でも自分の思いどおりにしなくては気が済まない≠ニいう性格の発露であり、それこそが、控訴人を陽子から遠ざけるに至った原因であるが、それに気付かず、復讐にのみ執念を燃やす陽子の業≠ェ気の毒であり、あわれに思えてならない」
肉体関係を結び、「大金」を「援助」された山崎にとっては、確かに「楽しかった思い出」なのかもしれない。しかし、同様の思いを女性に強いるのは、自己中心的に過ぎる。ましてや、貸した金を返してもらえない女性にとって、「楽しかった思い出として胸中にしまっておく」ことなど、できようはずもない。
続けて山崎は、開き直ったかのような文を記す。
「控訴人は、一介の私人であり、公職につく者でもなければ、宗教団体、或いは財界の指導者等の、社会的に大きな影響力を持つものでもない。
こうした著名な人達にとっては、女性スキャンダルは、時によっては、致命傷になりかねないものであり、通常は、金銭を支払って示談で解決する事柄であろう。
しかし、控訴人においては、何の資力もなく、又、おおいかくす必要のある事でもない。
又、おおい隠さなくてはならぬような醜悪な行為をした覚えも全くない」
醜悪な男には、醜悪な行為が、醜悪なものとして自覚されないようだ。
その後また創価学会批判が続き、自分が創価学会の暴虐に抗して戦っているかのようなことを縷々述べている。
「控訴人は、実態を明らかにして、国民に注意を喚起する仕事をつづけて来た。
それに対して創価学会から加えられたどのような迫害にも耐えて、今日に至っている。現在の控訴人はもはや名誉にも金銭にも、全く無関係に、只人間として、信仰を持つものとして、果たすべき事柄を淡々と遂行しているにすぎない」
昭和五十五年、山崎は宗門問題にかこつけ、創価学会から三億円を恐喝し、さらに五億円を恐喝しようとして未遂に終った。そのため山崎は、平成三年二月より懲役三年の刑に服したのである。獄中にあって山崎は、それが自身の言うようにかりそめのものであったにしても、その罪をいちおう認めている。
ところが、あろうことか、不貞にもとづくこの慰謝料請求訴訟において裁かれるにあたっても、つまらぬ大言壮語を続けるのである。そして山崎は、山崎自身が逃げているとも、相手方を脅しているともとれる、次のような陳述をしている。
「控訴人の現状からみて、仮に被控訴人や陽子が勝訴するようなことがあっても、取立は不能なことは明らかである、にもかかわらず、次々と訴訟を構えるのは、要するに控訴人をいためつけ恥をかかせんが為である。
こうした陽子の見境いない行為に対して、控訴人がマスコミ等で反撃せず、訴訟に対して心棒(ママ)づよく対応しているのは、かりそめにも交際のあった相手を、たとえ事実の公表という形であれ傷つけたくないという心情故である」
山崎は、裁判の結果がどのようになっても、「金は払えないよ」と宣言している。また、マスコミで反撃しないのは、「たとえ事実の公表という形であれ傷つけたくないという心情故である」としている。
何やら、読み方によれば、「心情が変わればマスコミで反撃する」と言っているようにも取れるが、冷静に考えてみれば、この不貞にもとづく慰謝料請求訴訟が公表され、痛手をこうむるのは、篤信者をよそおっている山崎のみである。
これまた裁判所に提出する「準備書面」の主張としては、意味不明の言辞といわざるをえない。
●驚くべき内容!山崎の「陳述書」
さてさて、山崎が平成十四年四月十一日付で提出した「陳述書」には、驚くべき内容が満載されている。なにしろ、この「陳述書」、四百字詰の原稿用紙でおよそ百三十枚。読むだけでも大変な分量なのだが、その一部を順次紹介していきたい。
ここで再び原点を確認しておこう。この「陳述書」で奇妙な論を展開している山崎の舌が、日蓮正宗の法主≠フ正統性を証明する唯一のものであるということである。すなわち、阿部日顕が細井日達管長より相承を受けたということが、まさに山崎のこの舌にかかっているのである。
さて、山崎はこの「陳述書」で、まずみずからが経済的に困窮していることを述べ、つづいてなぜか創価学会批判をえんえんと展開する。
「本件をふくむ一連の訴訟には、私を人格的に傷つけることによって、報復しようとする鈴木陽子の意図の他に私の創価学会批判を無力化させ、仲間や支持者との関係を破壊し、批判活動を止めさせようとする意図がはっきりとみられます。
私は、被控訴人や陽子が言うような、卑劣な、人間としてやましい行為をする人間ではなく、したこともないということを自ら信じる御本尊様にかけて、宣誓いたします」
「かりそめにも男女として心を許し、お互いの心を支え合い、又、活動に対して多額の支援をしてくれた相手の非を公の席で言い立てなくてはならぬことは、私自身の美学にも反します。若い時からこれまで、何人かの女性との付き合いはありましたが、それは今では、美くしい思い出として残っています。本件のような例は、只一つだけです。
しかし、相手が事実をいつわって自らを不倫の女≠セと汚がし、ただ欲望の満足のみに走って道をふみはずした卑劣な人間におとしめてまで、そしてそれによって私をも泥にまみれさせようとしている以上、妻や、私を支援して下さる友人達のためにも、けじめをつけざるを得ません。
そうした、私の心情と、被控訴人や陽子がことさらねつ造するような、卑しげな行為を私がするはずがないことを立証するために、当時の私がおかれていた状況と、私の人生の生きざまを、申しのべないわけにはまいりません」
男の美学や生き様を売り物にするのであれば、良雄が慰謝料として五百万円の支払いを請求する訴えを出したとき、即座にそれを払えばよかったと思う。裁判までして生き恥をさらすことはなかった。だが、恥を恥とも思わない山崎はそういった行動には出なかった。
●うんざりさせられる論の展開
それでは、山崎が「いささか長くなり恐縮」だとことわって申し立てた、この「陳述書」に書き込まれた言い訳の、ほんの一部だけを紹介しておこう。ただし、「ほんの一部」でも、うんざりするような論の展開である。
「日蓮大聖人の教えである、『南無妙法連華経』に接し、学んで行くうちに深く感銘を受け、一生を日蓮門下として、妙法のために捧げようと決心したのです。
その後、さまざまな試練に会いましたが、日蓮大聖人に対する信仰の念は、今日までいささかもゆらいだことはありません」
「宗祖日蓮大聖人の元(ママ)には6人の高僧(6老僧)がいて、日蓮大聖人の入滅後、それぞれに流派を立てました。
日蓮大聖人は、6人のうち常時(ママ)給仕をしていた白蓮阿闍梨日興上人を後継者と定められ、身延山久遠寺の貫主に任ぜられました。当時身延地方を支配する地頭で、身延山久遠寺の大檀那であった波木井氏は熱心な信者でしたが、大聖人没後、日興上人にそむいて大聖人が硬(ママ)くいましめられていた謗法=i教義、宗旨に反する行為)を犯したため、日興上人は日蓮大聖人から受けついだ、遺品、遺骨等を擁して富士山麓に移られ、やはり強信者であった地頭の南条時光氏の寄進と協力を受けて大石寺を開かれました。
以来今日まで、7百有余年日蓮大聖人の正統は歴代御法主によって今日まで受け継がれ、伝えられてきたのです。
日蓮正宗の教義の根本は、日蓮大聖人を、末法の民衆を救済されるために出現された『久遠元初の御本仏』であるとし、僧俗は歴代御法主を、大聖人の如く拝し奉る、という点にあります。その日蓮大聖人の御図顕あそばされた、本門事の戒壇の大御本尊(大石寺に秘蔵されています)を本尊とし、勤行、唱題し、折伏を行じ、教義を研鑚することが修業であります。
この点において、日蓮大聖人を菩薩≠ニし、釈尊を本仏とする身延派等とは根本的に違いますし、又、天台過時=A真言亡国∞禅天魔∞念仏無間∞律国賊≠ニ、仏教他派を折伏する厳しさにおいて、又、他宗派の教義や化儀をまじえることを厳禁し、更に、他宗の信者から布施を受けぬ等の厳格性において、針金宗≠ニよばれるような孤高と純粋性を維持してきた教団であります」
「日蓮正宗は、日蓮大聖人から今日の第67世御法主阿部日顕上人まで、7百数十年にわたる歴史をもつ教団ですが、鎌倉、室町時代を通じて、権力者や他の有力宗派から迫害を受け、又、他の日蓮宗教団との抗争にさらされてきました。戦国時代の荒廃を経て、江戸時代には、幕府の宗教政策にしっりと(ママ)組みこまれました。数万石の扶持を受けて形の上では安定しましたが、本来の姿である、折伏する教団≠ニしては、不本意な時代がつづきました。
明治に入り、他の仏教教団とともに、廃仏棄釈(ママ)運動の洗礼を受け日蓮正宗も生き延びるのに懸命でした。やがて国宗(ママ)神道の支配の下で、きびしい統制下におかれました。
更に、第二次大戦の終わりとともに、農地解放、経済混乱の嵐の中で、経済基盤を失い、信徒も四散して、日蓮正宗も、存亡の危機に立たされました。
このようなきびしい歴史の中で、日蓮正宗は、権力者や他宗の圧迫の中で、ひたすら正義を守り、伝えて来たのであり、大々的な布教が出来なかったとしても恥ずべきことではありません。一部の教団や寺院の如く低俗化によって大衆を集めるというようなことは思いもよらず、厳格に奥深く高まいな教えを守り孤高をつらぬいてきた教団です。
終戦時、日蓮正宗の信徒は、全国で3万世帯もいたでしょうか。ところが、日蓮正宗の一講中であった創価学会は戦後の混乱期に、独自の布教方法で、短期間のうちに、百万をこえる勢力になったのです」
「日蓮大聖人は、御遺文の中で、後世の門弟達に、
『広宣流布(日本中に日蓮大聖人の教えが広まったとき)の暁には、本門事の戒壇≠建立すること』
を御遺命されています。引用させていただきますと、
『戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王、覚徳比丘の其のむかしを末法濁悪の末法(ママ)に移さん時、勃宣(ママ)並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきか(ママ)、時を持(ママ)つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王、帝釈等の来下して踏みたまう(ママ)べき戒壇なり』(三大秘法抄)
『日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法をたてらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立されるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是なり。なかんずく我が門弟等此の状を守るべきなり。
日蓮花押
弘安五年壬午九月 日(筆者註「日蓮花押」より日付のほうが先)
血脈の次第日蓮日興』
(日蓮一期弘法付属(ママ)書)
取意(ママ)は、末弟達に、日本中に御本尊と南無妙法連華経を、広宣流布し、その暁に本門事の戒壇を建立すべしと御遺命されているのです。この、本門事の戒壇について、明治後期から戦後しばらくの間まで、国立戒壇≠セとする説が、宗内にありました。これは、国柱会=i国粋立(ママ)主義的日蓮宗在家教団)の田中智学氏が、国立戒壇≠ツまり、国家の手で戒壇を建立するべし、と言い出したのに対して、日蓮正宗側が、 『戒壇の義は当方にある』 として論争している中で、当時の、国家主義的思想の流行もあって次第に定着したものです。
しかし、日蓮大聖人の御遺命の戒壇は、国立≠ニいうこととは、ニュアンスが異なっています。詳細は省略しますが、もっと大きな見地で、宗教的次元でおおせられたのであります。
長い間、弾圧や権力のしめつけの中で細々と生き延びて広宣流布≠ネど夢物語りだと思って来た日蓮正宗関係者は、戦後の信徒団体である創価学会の爆発的な伸長によって、広宣流布も決して夢物語りではない≠ニ思うようになりました」
●毎度おなじみ、創価学会批判も
読者の方々も、このあたりでもう充分にうんざりされたのではあるまいか。しかしながら、最初にことわったようにこれは「ほんの一部」なのである。このような文章が、不倫にもとづく慰謝料請求訴訟の「陳述書」の中でえんえんと続くのだ。
しかも、山崎はなぜか、この慰謝料を求められた訴訟における「陳述書」の中においても、細井日達管長から阿部日顕に正当に相承がなされたと述べている。
「後をついで第67世に就任された阿部日顕上人は、総監として、創価学会との接点に立ち、和解を進める立場の方でしたが、故日達上人が、
『僧侶としての根性の座った男だ。法主の座につけば、私の心境も必ずわかるだろう』
と信頼し、後継に指名された方でした」
このような不貞裁判の中で、阿部日顕の相承の正統性が述べられていることを、日蓮正宗の出家や在家は知っているのであろうか。阿部日顕についても同様の思いを抱く。山崎は法主≠フ権威をもって、不貞による慰謝料の支払いをまぬかれようとしているのである。
ついで、山崎はまたまた創価学会批判。
「創価学会は、秘かに私を恐喝罪で告訴し、逮捕させようと警察に働きかけました。昭和56年1月、私は警視庁に逮捕され、起訴されました。
十年近い裁判の末、平成3年1月、上告棄却で3年の実刑が確定し、私は黒羽刑務所に服役しました。
私は、この件は、今でもデッチ上げによる冤罪≠ナあると確信しています」
「いずれにせよ、いずれ再審を申立てるつもりで準備中なので詳細は省略します。
私にとって、経済的事情と、体力が、請求に踏み切れない大きな理由となっています。判決文では、裁判所が有罪≠ニいう前提に立たれた上で書かれたのですから私の主張をいろいろな理由でしりぞけているのは当然でありますが、いずれそのことの誤りを糾すべく行動をおこすつもりです。恐喝事件≠ヘ創価学会による私の口を封じ、私を社会的に葬り去るためのデッチ上げであり陰謀であります」
そして、ついでに篤信者もよそおう。
「私は、故日達上人の御遺志を守り、日蓮大聖人の仏法が、野望をもった一人の男のために曲げられることを防ぐためにこの身を投げ出したつもりでしたし、刑事被告人にされ、行動をしばられたことは、わき目をふらずそのことに専念せよとの御仏功勅(ママ)であると受け止め、そのことだけのために集中しました」
このあと山崎は一転して、昭和五十八年、五百万円のカンパをもらった正信会に対する批判を展開し、またまた創価学会批判にもどる。この文章が、またえんえんと続く。その一部を紹介しよう。
「膨大な資金力で、スーパーコンピューターを備え、通信衛星を利用して世界に衛生(ママ)放送を行い、又、優秀大学卒のエリートを集め、教団官僚を育成する一方、各官庁、司法界、医療機関、マスコミなどに秘密会員をもぐりこませ、会員をつかって恐るべき情報網をしいています。
あやしげな宗教団体が、最先端の科学知識や手段を用いることは、オウム真理教で証明ずみです。
そして、このような手段をつかっての宗教という名のマインドコントロールが、人間と社会にとって、いかに恐ろしい害悪を及ぼすかも、又、明らかになってきています」
「こうした手法で巨大化した団体が、今、政治混乱に乗じて政権与党の一角にあるのです。
こうなると、議員も政府も、警察も司法も手がつけられません。これらは、機構≠ニいっても、一人一人の集まりです。一丸となって立ち向かう巨大勢力の前では、正義を行う以前に個々の担当者がふみつぶされます。
創価学会も、本質は、オウムと余り変わりありません。一方はサリンで権力奪取を考え、一方はマインドコントロールした会員をつかって票≠ニ金そして権護(ママ)術数で権力奪取を企んでいるという違いだけです。
ナチスが政権をにぎったように、共産党がソ連の権力をにぎったように、民主主義≠ニいわれる利制度(ママ)にも、又、人間社会そのものに、どうしょうもない弱さ、欠陥が存在します。
そこをついて、こうした独裁政権が出現したとき、国や国民がどのように悲惨な目にあうかは、多くの歴史が証明しているのです。
創価学会は、会員に対し、徹底した情報コントロールを行い、常にマインドコントロールでデマ宣伝や洗脳を行います。そのため、会員達は、世間から理解できない精神状態にあり上からの命令で極端な行動に走ります」
創価学会員は、オウム真理教の信者のように監禁・拘束を受けているわけではないし、社会のニュースなどから強制的に隔絶されているわけでもない。創価学会員は自由な社会で懸命に生きながら、信仰の喜びの発露として行動しているのである。山崎のいう「スーパーコンピューター」が何を意味し、それが山崎の主張する創価学会の「マインドコントロール」とどう結びつくのかまったくわからない。
学会の各会館でおこなわれている衛星放送の上映が「マインドコントロール」であると山崎は言うが、最新の通信機器を使って日蓮大聖人の仏法をより多くの人々に伝えることが、どうして悪の行為ということになるのだろう。
仏意仏勅の団体である創価学会が、世界広宣流布をしようとするにあたり、衛星放送を使って日蓮大聖人の正法正義を人々に宣揚し伝えることに、何のためらいがあろうか。山崎がこのわけのわからない「陳述書」で言っていることは、まともに相手にする必要もないことであるが、山崎の主張が、日蓮大聖人の大慈大悲から発する民衆救済への思いとは、まったく無縁のものであることだけは確かである。
山崎はしきりに「マインドコントロール」というが、「マインドコントロール」されているのは、日顕宗の者たちのことである。史実に反する「金口嫡々唯授一人血脈相承」を信じ、道楽者の阿部日顕を「現代における大聖人様」と信じている者――。このような者たちこそ、「マインドコントロール」されていると言えるのではないだろうか。
山崎はこの不貞裁判において、何ゆえにここまでの情念に突き動かされ、誰一人として説得できないであろう駄文を、どうして書き連ねるのか。山崎は誰に「マインドコントロール」されているのかと、思いたくもなる。
山崎の文を見ていると、まるでブレーキがないかのようである。
山崎のいう「男の美学」も、ブレーキの役割を果たしてはいないようだ。みずからの不貞裁判で、日蓮大聖人の御書まで引用して、慰謝料のいかほどが減額されると考えているのだろう。日顕宗と化したいまの日蓮正宗には、大変な信者がいたものである。
●山崎が「正義の告発者」であるとは誰も思わない
ともかく山崎は、同「陳述書」において、自分が創価学会と戦っている人物であることを強調しつづける。そこに書いたとおりであるならば、山崎はアンチ創価学会≠フ人々のヒーローということになるのだが、なぜか次のように書く。
「そうした状況の中で、私は、鈴木陽子と出会い、交際に入ったのです。私は既に、弁護士ではありませんし、ヒーローどころか、罪を反省しながら、同信の人達の好意にすがって生きる根なし草で、うらぶれた姿でした。
権力を用いて関係を強要したなどということがまったく作り(ママ)であることは言うまでもありません」
山崎の文章は支離滅裂である。山崎は先に引用した文章において、自分が創価学会と戦う類まれな戦士であるかのように印象づけている。それでいてここでは、「根なし草」「うらぶれた姿」となってしまう。その変身≠フ原因は、慰謝料を払いたくないから、陽子に対して「権力を用いて関係を強要した」ことがないと主張するためである。
山崎がこの引用文で「罪を反省しながら」と書いていることは、見逃せない。やはり恐喝は「冤罪」ではなかったのだ。
昭和五十八年六月当時、刑事被告人であった山崎が「権力を用いて関係を強要した」などという主張は、山崎を訴えた鈴木良雄の側から、一度もなされたことはない。常識的に考えて、山崎が「権力」を持っているなどと考える者は誰一人としていない。
それでも辛抱して山崎の「陳述書」を読んでいくと、その後、山崎は再びヒーローに返り咲く。今度は、創価学会からの「恐ろしいリンチや報復」を恐れて世の多くの人々が立ち上がらないのに、自分は立ち上がったと大見栄を切っているのである。
「その人達の叫びは、しかしマスコミも取り上げず政治家や警察、役所に訴えてもこれまで相手にされなかったのです。身を守るためには、黙って耐えるしかありませんでした。このような我が身可愛さで、やむを得ず黙っているしかない、或いは世間に訴える手段を持たない人達は、私の、すべてを投げ出して単身で行う批判活動に共鳴し、自分達の言いたいことを、替わって言ってくれる者として、期待し支援をよせたのです」
ここで確認しておくが、昭和五十五年当時、山崎が週刊誌などで創価学会批判を展開したのは、「正義の告発者」を装い、恐喝事件で逮捕されるのをまぬかれる目的のためだけであった。世のため人のために決起したのではない。
山崎はこの「陳述書」の中で、アンチ創価学会≠フ者たちと自分との間で、「信仰心にもとずく(ママ)正義感を共有」していたと述べる。山崎はさらに、この「陳述書」で次のように書いている。なお、この引用文で「この人達」と書かれているのは、反創価学会の活動をしている者たちのことを指す。
「この人達との信頼関係が無くなったら、私はいさぎよく批判活動を止めることに躊躇はなかったでしょう。この人達の信頼を裏切らぬため、私は一生けんめい戦いましたし、出所(ママ)進退には気を配りました。
皆が注目している中で表面とは違う裏面を持つ≠ニいうような二面生活など、出来るはずがなかったのです」
陽子との、肉体と金銭をめぐる関係、「二十代のモデル」「短大生」との肉体関係があったことは、誰が見ても「表面とは違う裏面を持つ≠ニいうような二面生活」である。
だが山崎は、そのようには感じない。
山崎は平成六年十月五日に発行した自著『平成獄中見聞録』の中で、次のように書いている。
「朝コッペパン、昼立ち喰いウドン、夜ノリ弁当という食生活にもなれたし、家賃もいつの間にか十二カ月以上たまり、電話や電気もしょっちゅう止められた。そんな時、仕方がないから歌舞伎町の雀荘でゴロゴロした。サービスのミソ汁やハンバーガーをたよりに、雀ゴロ生活をし、生活費とサウナ代が稼げればよし、負けてスッカラカンになったら、バスの始発時間までコマ劇場前の花壇で寝た。オカマに立小便をかけられそうになってあわてたこともあった」
裁判で述べることと自著で述べていることも、まったく正反対のことであった。
●グチと戯言のオンパレード
山崎の「陳述書」はもはや裁判に出す文書の域をはずれ、井戸端会議のグチ≠ノまで堕ちている。
「深夜突然苦しくなり、いても立ってもいられず、あわただしく、挫折や失望を何度も味わいながら、まるで夢遊病者のように、あてもなく動きつづけた歳月を思い出して、今でもしばらく胸の動きがとまらぬことがあるのです。
そうした中で、支援して下さる方々との交際のひとときは、私にとって砂漠の中のオアシスのようなものでした。(竹本志郎の麻雀荘も、息抜きのためにかよっていたにすぎません)
そのような、オアシスの部分で、鈴木陽子との交際をはぐくんだのです。不真面目な、いやしい心や、欲望に目のくらんだ末の行為でなどあり得ようはずのない状況であったことを、是非ご理解いただきたいと思います。
鈴木陽子は、はっきり申し上げて男性が我慢しきれない欲情≠覚えるようなタイプの女性では決してなかったのです。男が身の危険もかえりみず、突っ込んでいくような相手ではありませんでした。
年齢も既に50歳に近く、病いのある身体は、健康体とは異なっていました。
更に、私を四六時中監視し、すきあらばとねらっている創価学会の情報師団が、私と鈴木陽子の交際を知らぬはずがなく、しかもそれが不倫≠フ仲だと知って、黙っているはずがありません。
こっそりと夫に告げ口するか、或いは書き立てる中傷の材料にしたはずです」
まったくもって不可解な「陳述書」である。鈴木陽子との関係を続けているとき、その事実を創価学会側が暴露しなかったから、山崎と陽子の関係は不倫≠ナはなかった、と言うのである。
この山崎の主張にそえば、いま創価学会が山崎の不倫を問題にしているのだから、そのことにより山崎の不倫が裏づけられたという論も成り立ってくるのだが、論理性の欠如した山崎に、自身の論理の帰結を示しても詮なきことであろう。
「陳述書」を読めば読むほど、山崎が裁判の当事者としてまじめに対処しているとは思えないのだが、この「陳述書」を書いている山崎は意に介さず、筆を進める。不思議なことである。
山崎はこの「陳述書」において、出獄後、日蓮正宗の法主≠ナある阿部日顕が、次のように自分に言ってきたとまで書いている。
「誤解してすまなかった。よければ、当宗に帰ってきなさい」
山崎の、当慰謝料請求に対する反論らしい反論といえば、次に紹介する一カ所だけではあるまいか。
「陽子が勝手に自分を受け取り人にして良雄に生命保険をかけていた可能性も決してないことではなく、又、仮に良雄が自分で保険に加入し陽子を受取人にしていたとしても、それだけで必ずしも他の矛盾点をすべて帳消しにして夫婦関係の存在≠決定的に証拠づける事実とはなり得ません。
今日、生命保険は、人間関係にかかわりなく加入することが少なくないのです。生命保険詐欺のための加入もあるくらいです」
ここで山崎の「陳述書」はやっと「結論」に入る。
「私は、陽子との交際の間、彼女の好意と愛情にこたえるべく最大の努力をして誠心、誠意をつくしてきた、という自負があります。それを、こんな形でふみにじられて、何ともいえない気持になりました。
人生、一期一会です。陽子との交際は、我自身の良心にも、又、世間にも恥じることのないものであったことを、私は今でも確信しています」
山崎はこの「結論」で陽子の「愛情にこたえ」、そのために「誠心、誠意をつくしてきた、という自負」までしている。だが、本当にそうであろうか。大分地裁の第一審での証人尋問の際、
「交際期間中に、被告のほうから、金銭、その他物品関係で贈物を受けたことはありますか」
との裁判官の問いに、鈴木陽子が、
「ありません」
ときっぱりと答えたことを思い出してもらいたい。山崎は、陽子に贈物すらしたことがないのだ。
また、山崎はこの「陳述書」において、壊れたオモチャのように自己の正当化を図りつづける。今度は山崎自身の信仰心を披瀝するのである。
「私の、故日達上人から課せられた使命は終わったと思っています。苦しく、悲惨に見える20有余年も、私にとって貴重な罪障消滅の元となる仏道修業であると思えば、何の後悔もありません。
常に力一杯、誠心誠意、全生命力を燃やして悪と戦って来たことを我が身のほこりとして、霊山へおもむいた時、日達上人に御報告出来ると思えば、それ以上の幸福はありません」
またも故・細井日達管長が、この不倫訴訟に引き出されてしまった。ここで文が終わるのかと思えば、またグチが続く。
「そうした中でのひととき、陽子との8年に及ぶ交際だったのに、これを良い思い出とせず、ことさら自らを淫婦におとして、私を道づれにし、嫉妬心から出た怨みを晴らそうとする陽子の悲しい心情、絶望感の深さも理解できないことではありません、それに対しては怒りよりも、哀れを覚えます。
あれほど、プライドが強く、気性もはげしい女性が法廷で好きでもなく自分の夫として決してふさわしくないと思っている男に、そして現実に夫でもない男に心ならずも頭を下げ、不倫を働いて済まなかった≠ニいつわりを述べるその心中は如何ばかりかと、目の当たりにしながら、私は、只、暗胆(ママ)たる思いでした。
そして、どうしようもなかった状況がつづいたとは言え、牢に入る前又は出獄後もっと辛抱づよく納得させる方法や行動がとれなかったかと思い返していたのです。いずれにせよ、二つの訴訟で私の心は大層傷つきました」
このような記述で、四百字詰原稿用紙で約百三十枚におよぶ山崎の「陳述書」(平成十四年四月十一日付)はやっと終わる。
●明快な鈴木良雄の主張
これに反論する鈴木良雄の「陳述書」は短いものであった。それだけに要領を得、読む者の心情を打つ。以下、全文を紹介する(筆者註 ○は伏字とした)。
「1 私は山崎がこの度提出した『陳述書』を一読し、ますます怒りが込み上げてきました。
山崎に妻陽子は赤子の手をひねるかのように騙され、私たち夫婦が汗水働いて貯めたお金をむしり取られ、あげくに陽子の体を弄ばれたかと思うと、はらわたが煮え繰り返り、胸をかきむしられるほどの怒りを覚えます。私は、絶対に山崎を許せません。
2 山崎の『陳述書』は、そのおよそ7割近くが山崎自身の略歴紹介(この裁判には何の関係もないことばかりです。この文章はいったい何を目的にして書かれたものかまったく理解することができません)で、それ以外の3割が私や陽子、それに浜中和道御住職に対する悪口で構成されており、全文通して『私(山崎)は悪くない。騙されたのは私だ。私は清廉であり潔白で正義のために活動してきたのだ』と、自らを美化する一方で、他人をけなす文章を書き連ねていて呆れるばかりです。山崎の『陳述書』には毛筋ほども誠意を感じられる箇所はありませんでした。
ただ、一箇所だけは明確に否定しておきたい部分があります。それは私が加入していた生命保険について、山崎が『陽子が勝手に自分を受取人にして良雄に生命保険をかけていた可能性も決してないことではない』などと言っている部分に対してです。私は、昭和60年12月1日に第一生命保険相互会社の生命保険に加入しました。死亡保険金の受取人は陽子です。この保険の証券には私が自分で署名しております。また、昭和62年7月に私が怪我で○○○○外科に入院した際には、その後、私名義の銀行口座に入院給付金が振り込まれ、それを治療費の支払等に充てました。このように、この保険は間違いなく私が自らの意思で自分で加入したものなのです。
3 話を戻しますが、おそらく山崎は、金銭目当てに陽子に近づき、陽子と関係を持ちつづけ、お金を騙し取り、金がなくなるや縁の切れ目と考えて、陽子を捨てたのだと思います。勿論、このような男に引っかかってしまった陽子も愚か者であることには間違いありません。
平成11年の暮れ、陽子から山崎との関係を知らされた時、私は思わず陽子に向かって『二人とも、まとめて殺しちゃるわい』と怒鳴りつけました。もし陽子が病弱な身体でなかったならば、私はその場で陽子を殴り倒していたことでしょう。それほどまでに私の精神的なショックは激しく、山崎や陽子に対してやりきれないほどの憎悪の気持ちを抱きました。
騙されるほうも愚かでしょうが、騙す者がいなければ、騙される者がいないのは当たり前のことで、山崎が陽子に近づかなければ、現在のような事態にはなっていないことは明らかです。
4 現在でも、この手で山崎の身体を八つ裂きにしたい、ウソばかりついている舌をペンチで引き抜いてやりたい、という心境は今でも変わりはありません。しかしそのようなことを現実にしてしまえば、私が牢獄に入らなければならなくなります。そのような愚かなことはしてはいけないと、自分に言い聞かせています。
私はこれまで、ひたすら一生懸命に働いてきました。陽子が大病を患った時は、陽子のために身を呈して看病してきました。また○○○○○に勤務した際も無断欠勤なども一日たりともしたことはありませんでした。そのような私がどうして今、このような仕打ちを受けなければならないのか。その原因を考える時、やはり山崎さえ私たち夫婦の間に入ってこなければと恨めしく思っています。山崎が陽子に近づかなければ、私がこのように苦しむことがなかったと思います。
裁判官におかれては、厳正なる処断を山崎に下していただければと思います。
以 上」
この「陳述書」と同時に、死亡時最高三千万円、災害時最高六千万円の生命保険の「証券」が証拠提出されている。
同年六月二十日、福岡高裁において控訴審の第二回口頭弁論が開かれた。山崎は新たな「陳述書」(平成十四年六月二十日付)を提出した。山崎はこの「陳述書」の中で陽子についてまたも非難をする。
「(陽子は)結婚しようとまで思い決めていたのに控訴人から交際をたたれ、一人になってしまったのですが、そうなると病身で誰かの支えを必要としたし、又、控訴人への復讐をつづけるためもあって、長い間、相手にしていなかった被控訴人とよりを戻した」
山崎は陽子との関係について、あるときは信仰上の同志的つながりであったことを強調する。またあるときは、このように、陽子が山崎との結婚願望をもっていたと言い立て、「復讐」のために陽子は良雄と「より」を戻したなどと、ありえない主張を述べるのである。
●要は、人妻に二千万円近くを貢がせただけの話
ここで注意しなければいけないのは、山崎は陽子から二千万円近くもの「援助」を受けているという事実である。山崎はこの「陳述書」において、陽子が夫と別れ結婚しようと思いつめていたと主張している。
となれば、山崎はその陽子の結婚願望を知っており、それを前提に二千万円近くもの「援助」を受けていたということになる。換言すれば、山崎はみずからの舌で、結婚を望む女性に、その望みをかなえてやるとして貢がせたと言っているのにほかならない。山崎が強弁すればするほど、その心の底にある欲望のうねりが果てしないものであることが明らかとなっていく。
「陳述書」は続く。山崎はまたも陽子を切り刻む。陽子は山崎と会った折には「必ず性的交渉を求め」「いつも性的に飢餓状態にありました」と、まるで陽子が色情狂であるかのようにいっているのだ。
ここで読者の方々は山崎が二年足らず前に大分地裁に出した、平成十二年九月二十八日付の「第二準備書面」を想起してもらいたい。そこで山崎は、陽子と初めて関係があった頃のことについて、こう書いていた。
「当時、二十代のモデルの女性と短大生と交際があり、陽子に対して特別の情を持ってはいなかったし、女性の相手を、求めているという状況にもなかった」
山崎は、このように自分が性的相手を求める状況になかったことを強調し、さらに加えて陽子とのあいだは、「迫害に耐えながら、自らの信ずる信仰の道をどこまでも貫くという運動の同志としての強い連帯感」によって結ばれていたといっている。また、「単なる色欲や気まぐれによる行いとは異なっていた」とも述べていた。ところが、それから二年足らず後の「陳述書」においては、あたかも陽子が肉欲に狂った女性のように述べ立てるのである。
陽子に対する人格攻撃は容赦なく続く。
「このように執念深く、何事も自分の思うようにならなくては気が済まず、目的をとげるまではなりふりかまわず、どのような手段にでも及ぶというのが訴外陽子の人格であり、本件も(なりふりかまわず手段を選ばぬ)その手段として存在するのであります。
私は、訴外陽子との、交際の中で、次第にこの何でも自分の思い通り支配し、動かさねば気がすまない≠ニいう偏執狂的な性格があらわれ、遠く離れ、月に一度逢うという関係に満足せず、毎日のように私の行動や居所を把握しようとし、それがうまくいかないと狂ったようにわめいたり泣いたりし、私の周囲をストーカーのようにかぎまわるようになったことに、すっかり興ざめしたことも、交際を止めようと決意した大きな理由であります。
このような、訴外陽子及び被控訴人の紛争の経緯、そして背後にある創価学会の関与をみれば、これら一連の訴訟が、ある一つの意図のもとに、計画的、スケジュール的に行われていることがあきらかです」
山崎は、陽子がストーカー行為に及んだと言っているが、平成三年二月二十五日に懲役三年の刑で収監される直前の二十一日の夜、赤坂プリンスホテルで会っていたのである。このことからすれば、山崎が入獄する直前まで、二人は合意にもとづき関係を結んでいたということになる。したがって、山崎がいうようにストーカー行為があったとは思えない。
陽子が主張するように、平成五年四月に出獄した山崎が一方的に陽子との関係を切ったのであろう。
山崎はまた、この訴訟が創価学会の陰謀であるとしきりに主張するが、陽子は創価学会に対して批判的な正信会の信者である。したがって、正信会の信者の訴訟に創価学会を結びつける山崎の主張には無理がある。
山崎は同「陳述書」において、良雄が陽子のために昭和六十年十二月一日に入った生命保険について以下のように反論している。
「保険加入については、契約者の署名等は被控訴人の自筆であっても、訴外陽子の指示、或いは依頼によるものである可能性までは不(ママ)定できません」
この山崎の主張をみれば、いかなる書証も無意味なものとなる。
●結局、最高裁でも負けた山崎
その後山崎は「陳述書」の中で、鈴木良雄によっておこされた本件慰謝料請求訴訟などについて、
「正に、訴訟に名を借りた暴力とでもいえるのではないでしょうか」
と愁訴する。どう見ても自業自得としか思えないのだが……。
山崎は、この「陳述書」の終盤において、次のように見栄を張ってみせるのである。
「今日、日蓮正宗は創価学会を破門して元の姿にもどり、控訴人も、その一信徒として復帰を認められました。
私は悲願は一応達せられたのです。それでも私が書き続けるのは、国家、社会、国民のためを思ってのことです。
創価学会には、誤りを改めてもらいたいと思うからです。国民としての義務をはたしているつもりです」
大言壮語すればするほど、曳かれ者の小唄≠ノしか聞こえない。
平成十四年九月十九日、福岡高裁において判決が言い渡された。判決は一審の大分地裁の判決を支持するものであった。山崎は良雄に三百万円の慰謝料と既定の利息を支払うことを余儀なくされた。
ここで山崎は、三百万円と既定の利息を支払う意思のあることを原告の良雄に対し示す。山崎は不貞についての罪を良雄に対し認めたのである。だが良雄は、山崎の示した三百万円余の支払いを承諾しない。良雄はあくまで、当初要求した五百万円の支払を求め最高裁に上告する。
しかし、翌平成十五年二月十八日、最高裁は一審・二審の判決を支持した。
結局、山崎はその決定にしたがい、慰謝料三百万円と規定の利息を良雄に支払った。良雄の請求額との差は、わずかに百数十万円。そこまでして争うような裁判であったのだろうか。
山崎は五百万円の慰謝料を払いたくないだけで、平成十二年三月から平成十五年二月までの長きにわたり、大分地裁、福岡高裁、最高裁で争った。その間、山崎はウソを並べ立て、かつての愛人である陽子を切り刻んだ。山崎はこの裁判においてその本性を暴かれた。百数十万円を争ったがために、山崎の非人間性が明らかとなった。加えて山崎が詭弁を弄する、まったく信用するに足らない人物であることも揺るぎないものとなった。
この訴訟が、山崎と有夫の女性との間に発生した不貞行為に基づく慰謝料請求という単純な争いであるだけに、第三者の目にも黒白はあまりにも明らかであった。それだけに山崎の素性の卑しさが明白となった。
このようなわかりきった裁判においても山崎は、いつもそうであるように、創価学会を引き合いに出しながら裁判を攪乱し、逃げおおそうとしたのである。だが、この裁判の経過をつぶさに見ることにより、山崎の主張、証言がまったく信用できないことを、誰しもが認識したであろう。
その、まったく信用するに足らない山崎の舌≠ノ、阿部日顕の相承の正統性がかかっている。日顕宗と化した日蓮正宗が一枚看板とする「金口嫡々唯授一人血脈相承」は、山崎のような詭弁を好む者たちによって支えつづけられているものなのである。

