●本義からズレている日蓮正宗の「血脈」
いま、信仰の本義からはずれたところで「血脈」や「相承」という言葉が一人歩きしている。
ことわるまでもないが、末法の御本仏である日蓮大聖人は、衆生(民衆)に対して血脈を継ぐことを願われた。信心の血脈は、ただ一人の法主≠ノよってのみ継がれるものではない。そのことを確然と認識したうえで、いま日蓮正宗において起きている法主詐称≠フ問題、そして血脈断絶≠ニいう問題を見ていかなければならない。
血脈あるいは血脈相承については、日蓮大聖人が「生死一大事血脈抄」に明確に示されている。この「生死一大事血脈抄」が認められたのは文永九年二月十一日のことで、最蓮房日浄に与えられた。佐渡に流罪されて約四カ月後、人本尊開顕の書である「開目抄」、法本尊開顕の書である「観心本尊抄」を著される前触れともいえる重要な御書である。
末法の御本仏である日蓮大聖人はこの「生死一大事血脈抄」において、諸難にあっても大聖人に信伏随従していこうとする弟子檀那に、正しい信心の血脈が継がれていくことを明確に示されている。
曰く。
「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
【通解】このように十界の当体が妙法蓮華経であるから、仏界の象徴である久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経すなわち妙法蓮華経と我ら九界の衆生の三つはまったく差別がないと信解して妙法蓮華経と唱え奉るところを生死一大事の血脈というのである。
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し、日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに」
【通解】総じて日蓮の弟子檀那等が、自分と他人、彼とこれとの隔てなく水魚の思いをなして異体同心に南無妙法蓮華経と唱え奉るところを生死一大事の血脈というのである。しかも今、日蓮が弘通する法の肝要はこれである。もし、弟子檀那等がこの意を体していくならば、広宣流布の大願も成就するであろう。これに反して、日蓮の弟子のなかに異体異心の者があれば、それはたとえば城者にして城を破るようなものである。日蓮は日本国の一切衆生に法華経を信じさせ、仏になるべき血脈を継がせようとしているのに。
「只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ」
【通解】南無妙法蓮華経、釈迦多宝上行菩薩血脈相承と唱え、修行されるがよい。
「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」
【通解】心して強盛の大信力を出し、南無妙法蓮華経、臨終正念と祈念なさるがよい。生死一大事の血脈を、このことのほかに求めてはならない。「煩悩即菩提・生死即涅槃」とは、このことである。信心の血脈がなければ法華経をたもっても無益である。
「生死一大事血脈抄」によれば、血脈の相承とは、日蓮大聖人を末法の御本仏と信じ奉る者が広宣流布にはげみ、信仰心豊かに一生をまっとうすることに尽きるのである。
またさらには、日蓮正宗がいま盛んに口にしている「金口嫡々唯授一人血脈相承」というものが、末法の御本仏である日蓮大聖人の教義に反するのみならず、日蓮正宗の史実にも反したものであることを認識する必要がある。
一器の水が次の一器に一滴も漏れることなく伝えられるように、一人の法主≠ゥら次の法主≠ヨ、誰も知り得ない秘密の教えが受け継がれるとする日蓮正宗の現実離れした教義。この妙な幻想に根ざす「血脈」という言葉のゆえに、さまざまな邪義、迷信が日蓮正宗内に横行し、衣の権威をもって民衆の信仰心が左右されるという愚が公然とおこなわれてきたのである。
そもそも日興上人は、「富士一跡門徒存知の事」に次のように書かれている。
「此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず正像末に未だ弘通せざる本尊なり、然れば則ち日興門徒の所持の輩に於ては左右無く子孫にも譲り弟子等にも付嘱すべからず、同一所に安置し奉り六人一同に守護し奉る可し、是れ偏に広宣流布の時・本化国主御尋有らん期まで深く敬重し奉る可し」
【通解】この大聖人御自筆の御本尊は、全世界にいまだ流布しておらず、正法・像法・末法の三時にいまだ弘通していない本尊である。したがって、日興の門流で御自筆の御本尊を所持している者は、軽々に子孫に譲ったり、弟子などにも付嘱してはならない。御自筆の御本尊は一箇所に安置し、本六の弟子が心を合わせて守護するべきである。そして、ひとえに広宣流布のとき、本化の国主のお尋ねがあるときがくるまで、深く敬って重んじるべきである。
この日興上人の御文にも明らかなように、六人の弟子は共同して日蓮大聖人の御本尊を後代に伝えるよう命じられている。しかも、後代に譲り伝えるべき相手は「本化国主」、すなわち現実的には、日蓮大聖人の仏法を体現した在家の仏教指導者なのである。
この「富士一跡門徒存知の事」の御文に異論をはさむ余地はない。つまるところ、いまの日蓮正宗が金科玉条としている「金口嫡々唯授一人血脈相承」などというものは、「六人一同に守護し奉る可し」という文からして、絶対にありえないことなのである。まずはそのことを確認したうえで、日顕宗と化した日蓮正宗の法主の「相承」の問題について述べていこうと思う。
●細井日達管長から阿部日顕への「相承」はなかった!?
日顕宗の機関紙『慧妙』の平成十五年八月十六日付に、「今こそ史実の裏側まで全て語る!」と題する、「元・創価学会顧問弁護士」の山崎正友と「元・創価学会教学部長」の原島嵩の対談が掲載されている。山崎は現在、大石寺塔中・理境坊、原島は東京・墨田区の妙縁寺のそれぞれ檀徒である。そうしたいまの立場よりも「元」を強調するのであれば、山崎については「元・恐喝犯」、そして原島は、創価学会本部より大量の資料を持ち出し、山崎より報酬をもらった「元・窃盗犯」という肩書き≠烽ることを指摘しなければならない。
この山崎・原島の対談は、『慧妙』平成十五年八月十六日付、同九月一日付、同九月十六日付、同十月一日付の合計四回の連載が、本書執筆時点で確認されている。
この対談の最第一の目的は、阿部日顕が法主に就いたことが正統であったと証明することである。換言すれば、日蓮正宗細井日達管長より阿部日顕に対し、正しく相承(跡目相続)がなされたことを、山崎と原島が昭和五十四年当時にさかのぼって回顧することにより、裏づけようとしているのだ。
それにしても、よりにもよってこの山崎、原島のような人物に、みずからの法主の地位の存在証明をしてもらおうなどと日顕はよくも考えたものである。藁をもむとはこのことだろう。阿部日顕は取り返しのつかない誤判断をした。
ともあれ、誰が見ても、法主相承を証明するには最もふさわしくない者たちの対談が、日顕宗の機関紙である『慧妙』に掲載されつづけている。そこにおぼろげながら見えるのは、阿部日顕に追従する者らのおもねり、それに抗うかのように同宗内にひそかに広がる独裁者の愚行への冷笑である。
阿部日顕に細井管長から相承がなされなかったとの問題を提起した『法主詐称』(発行・エバラオフィス 発売・星雲社)と題する本が憂宗護法同盟より出されたのは、平成十五年七月十六日のことであった。同書は次のような点を指摘している。
@本来、正統なる相承を受けた者が持つべき相承箱が阿部日顕の手もとにない。相承箱は大宣寺(東京・国分寺市)にある。A昭和五十六年一月十三日、阿部日顕は、早瀬義孔(故人)、早瀬義寛、八木信瑩、阿部信彰とともに大宣寺を訪れ、相承箱を持ち去ろうとしたが、未遂に終わった。
B僧侶にとって大事な日号を、阿部日顕は「日慈」から「日顕」にみずからの登座直後に変えた。「日慈」という日号は当時、前任の宗務総監であった早瀬日慈とダブるもので、昭和五十三年四月十五日の時点で阿部日顕が相承を受けたのであれば細井管長が阿部日顕の日号を変える、もしくは早瀬日慈の日号を変えるといった処置がなされるはず。
C細井管長が亡くなった昭和五十四年七月二十二日、細井管長の遺体が大石寺に到着し、午前七時十五分に枕経がおこなわれることになったが、そのときの導師・阿部日顕が細井管長の遺族である長男・珪道、次男・゚道、娘婿の菅野慈雲に、「あと(相承)のこと、君たち聞いてるか?」と聞き、それに対して菅野が、「いやぁ、それは、総監さん(日顕)じゃないですぅ?」と答え、阿部日顕が、「あっ、そうか…あぁ、そうだったな――」と述べたこと。
D昭和五十三年四月十五日に細井管長が阿部日顕に相承をするということは、細井管長の当日の日程の繁忙ぶりからして無理であった。
これらの事実を詳細な検証によって詰められたことにより、みずからの相承に対する疑惑が宗内に広がることを阿部日顕はなんとしても阻みたかったようだ。
●過敏に反応した日蓮正宗
事実、日蓮正宗はこの『法主詐称』という本に過敏な反応をする。七月二十二日には、宗務院が宗内各位に対し「院達」(院第三六三三号)を出す。その内容は、
「これにつき、このたび、御法主上人猊下より、『御相承箱』のことは宗義の大事であり、軽々に口にすべきではないが、御先師よりお承けした『御相承箱』は、総本山内のしかるべき場所に常時厳護申し上げてある旨の御言葉がありましたので、お知らせいたします」
というものだった。
同日、この「院達」に加えて二通の「声明文」が出された。「声明文」は、憂宗護法同盟よりいま相承箱が所在していると指摘された大宣寺(東京・国分寺市)の住職である菅野日龍(慈雲)名のものが一通、もう一通は、その相承箱を大宣寺から阿部日顕が持ち去ろうとした際に供をしたとされる庶務部長の早瀬日如(義寛)、大石寺主任理事の八木日照(信瑩)、そして阿部日顕の息子である妙国寺(東京・板橋区)住職の阿部信彰、以上三人の連名になるものであった。どちらも「宗内各位」に出されたものである。それに添えて菅野日龍名、そして上記三人連名の憂宗護法同盟宛の「通告書」が宗内に公表された。
このことからして、相承箱にまつわる疑惑が日顕宗全体に大きな衝撃を与えたことがわかる。
「声明文」「通告書」が四人の連名ではなく、いずれも菅野日龍一人とその他三名の別々のものが作成されているという点も注目に値する。
憂宗護法同盟代表の小板橋明英宛に、菅野日龍一名と早瀬日如・八木日照・阿部信彰三名の別々の「通告書」が送られたが、念の入ったことに、本来、宗内に徹底するために出される「声明文」も二通、その「通告書」とともに送付された。
そのうち、菅野の「通告書」を以下に紹介する。
「今般、憂宗護法同盟著『法主詐称』に記載された文書の内容は本宗に対する許しがたい誹謗である。
特に本宗の血脈相承に関して、ある僧侶の言として、『相承箱』が国分寺市大宣寺にあるとしているが、もとより大宣寺には『御相承箱』なるものは存在しない。ある僧侶とは何者か、その僧侶の氏名を公表せよ。
また、最近興味深い話が飛び込んできたとして、複数の本宗僧侶が、昭和五十六年一月十三日大宣寺を訪れ、『御相承箱』を奪い取ろうとしたが失敗した、などとの記述があるが、かかる記述も、当然ながら全くの事実無根である。そのようなことを話した者の氏名を明示せよ。もし公表できなければ、捏造の謀略と断ずる」
菅野は、相承箱の奪還未遂事件がなかったとする。しかしこれは、元来、法主として正統な相承を細井管長から受けていない阿部日顕に阿諛追従したものとしか言いようがない。菅野は相承箱のことに触れるのであれば、細井管長から阿部日顕への相承についての真相を公表すべきである。その責務を回避して、相承箱についてのやり取りのみを云々するのは、本質をはぐらかし自己保身をはかっているだけにしか見えない。
●相承箱をめぐって右往左往
これに対する憂宗護法同盟側の回答は意表をつくものであった。憂宗護法同盟側は七月三十一日付で、代表の小板橋名による「反駁の書」を阿部日顕宛に送った。
「相承箱及び、その奪還未遂事件の発信源は他ならぬ、大宣寺・菅野師自身の口からである」
なんと、「声明文」「通告書」を出した「大宣寺・菅野師自身の口から」出たというのだ。これに対して日蓮正宗側は八月十二日、「院達」(院三六三九号)を出し、 「その内容は、まさに嘘の上塗りであり、御相承について言及した『ある僧侶』とは、菅野日龍師であるなどと開き直るに至っては、最早、単なる虚偽報道の域を超えた、重大な名誉毀損行為であります」
と反論した。さらに同日、早瀬日如、八木日照、阿部信彰、そして菅野日龍の連名で、「再通告書」を憂宗護法同盟宛に送付した。
八月二十一日には、阿部日顕みずから、教師講習会参加者との「目通り」の席で、 「相承箱は、日達上人からお受け申し上げ頂いて、そしてしかも、それから一歩も御宝蔵から、外に出ておりません」
と述べた。これに対して憂宗護法同盟は、八月二十八日に「反駁の書(其の二)」を出し、阿部日顕が細井管長より「相承箱」を預かったというのなら、それは阿部日顕が細井管長より相承を受けたと主張している昭和五十三年四月十五日の際か、それよりあとのことなのか、また、これまで阿部日顕の相承をめぐる裁判において、なぜ「相承箱」に言及しなかったのかと指摘。さらに、
「今回の『反駁の書(其の二)』発信以後、半月以内に貴殿が法廷に打って出なければ、最早、勇気の有無などは問題外、貴殿の21日の目通り発言は『大法螺』であり、貴殿の一世一代の『大芝居』と、我々は断ぜざるを得ぬ。〈中略〉我々の側より、法廷闘争と云う貴殿への追撃の鉄槌を下すことを此処に明言しておく」
と挑戦状を叩きつけた。日蓮正宗は「箱」をめぐって、騒擾状態となった。その箱の大きさは聞くところによれば、縦・横・高さ四十五センチメートルであるという。もう血脈相承による秘法の伝持などは、そっちのけである。日蓮正宗においてもっとも尊い「金口嫡々唯授一人血脈相承」は、その小さな木箱の中にスッポリと入り込んでしまった。末法の御本仏・日蓮大聖人の説かれた大慈大悲の広大深遠なる教法は、「相承箱」などという秘儀の道具めいた存在により、かくも矮小化されることとなったのである。
日蓮正宗内はこのように『法主詐称』の出版によって紛糾する。
●浜中和道の『回想録』で指摘されたこと
この『法主詐称』の出版以前にも、日顕の相承に対する疑惑を巻き起こす本が日蓮正宗内に出回っていた。平成十二年十月、大分県竹田市にある正信会所属の伝法寺住職・浜中和道が『回想録』を書き、日蓮正宗、正信会及び創価学会の限られた者に配ったのである。浜中は昭和五十二年から平成の初めまで山崎正友と盟友関係にあった。同書は密かにコピーされ日蓮正宗内に流れた。
浜中の『回想録』は、昭和四十九年から平成七年にわたる山崎、細井日達管長など日蓮正宗中枢、正信会の者たち、創価学会幹部などの動向を詳細に記述したもので、四百字詰の原稿用紙にして約一八〇〇枚にも及ぶ。書かれている内容は迫真性に富み、ことに山崎の折々の発言が詳細に記述されている。
この『回想録』によって、細井管長から阿部日顕に対して相承がなされていないことが明らかとなった。
同『回想録』はそれだけにとどまらず、詳細に読んでいけば、昭和五十四年七月二十二日の細井管長の突然死により、「金口嫡々唯授一人血脈相承」が断絶したことが明らかになる。日蓮正宗がいまも金科玉条として掲げている相承≠フ根底を 覆す事実関係が詳細に記録されていたのだ。
同『回想録』には、概略すると次のような経過が書かれている。
亡くなる前日の二十一日夜、富士宮市のフジヤマ病院に入院している細井管長を見舞ったのは、大石寺塔中・妙泉坊住職の光久諦顕と大宣寺住職の菅野慈雲の二名であった。当然、細井管長の美佐子夫人はつきっきりであった。見舞いに来た光久は「お仲居」の職にあり、いわば細井管長の側近中の側近である。菅野は細井管長の娘婿にあたり、当時、日蓮正宗海外部長であった。
細井管長は、
「明日どんなことがあっても本山に帰るから、大奥の対面所に布団を敷いておけ」
と奥番に指示をし、光久と菅野に対して二人でかならずそこに来るよう命じた。
この経過を踏んまえ、山崎、浜中は翌日、大奥で相承の儀式が簡略ながらおこなわれることを予想する。その他にも、山崎は浜中に詳細な経過を電話で伝えている。
山崎が浜中に電話で伝えた話によれば、山崎が菅野、光久ともども病室を辞したのち、病室に残っていたのは美佐子夫人のみであった。容態が持ち直したということで、菅野、光久、山崎はそれぞれ帰路についた。光久は大石寺、菅野、山崎は東京に向かった。
東京に帰った山崎のもとに、細井管長の容態急変の報が美佐子夫人から入る。このようなときに山崎に管長夫人から電話連絡がきたのは、山崎が相承にからむほど細井管長の信任を得ていたからではない。山崎はあくまで細井管長の主治医である聖路加病院の日野原重明医師に対する連絡役に過ぎない。それは心臓の悪い細井管長に、主治医として日野原医師を紹介したのが山崎であったという事情からであった。このことにより、山崎は細井管長の臨終前後に居合わせたのである。
ちなみに山崎は、日野原医師を日本船舶振興会の笹川良一から紹介してもらった。主治医を紹介したことにより、山崎は細井管長から全幅の信頼を得ることになり、細井管長はその後、山崎を「山崎先生」と呼ぶようになった。
ともあれ、美佐子夫人より細井管長の容態急変という急報を伝えられた山崎は日野原医師に連絡を取り、急ぎフジヤマ病院へ向かった。しかし細井管長の臨終には間に合わなかった。
以上の経緯が浜中の『回想録』に記されている。
●『法主詐称』の出版で宗内は大騒ぎ
細井管長の死去は、正式には七月二十二日午前五時五分。同日に予定されていた大奥での相承のための儀式はついにおこなわれることはなかった。呼ばれていたのは、菅野、光久の二名であったのだから、そのいずれかが次期法主≠ノ指名される予定だったのだろう。
ところが山崎は、日野原医師への連絡役という立場で、たまたま細井管長の臨終にからんだことをもっけの幸いとして、法主相承の真実を知っているかのように、いまだもって装っているのである。
このことにより、法主≠詐称する阿部日顕は山崎に利用価値を見出す。細井管長に最後に会った三人(夫人を除く)の一人である山崎の口から、阿部の相承≠ノついて好都合な発言をしてもらおうというわけだ。ニセ法主ならではの発想といえる。そこで、おこなわれたのが日顕宗の機関紙『慧妙』における山崎と原島の対談である。この対談の連載を始めた遠因は浜中和道の『回想録』、近因は『法主詐称』の発刊にあったといえる。
さて、『法主詐称』が刊行された七月十六日の直後の七月二十日のことである。総本山大石寺において阿部日顕と山崎正友、原島嵩、大草一男、そしてそれぞれの者たちが所属する寺院の指導教師である光久日康(元・諦顕)、小川只道が打ち合わせをした。打ち合わせは、午後三時から五時半までおこなわれた。
この場は山崎の独演会であったという。
ここで山崎は、阿部日顕の相承を正統化するのに好都合な話をした。この下話を経て八月七日、光久が住職を務める東京・墨田区の妙縁寺で、山崎、原島の対談がおこなわれた。
先述したように、『法主詐称』が出版されたとき、菅野は「声明文」「通告書」を出させられることにより、法主¢鰹ウの生き証人としての立場を放棄させられた。細井管長のいまわの際の事情を知る者でありながら、その口を封じられたのである。
そして、光久も山崎と原島の対談の席に立ち会わされている。光久は細井管長の側近ナンバーワンであった。山崎が原島との対談で得意然として語る真実に反した細井管長の臨終前後の様子を、光久はどのような思いで聞いていたのであろうか。
なお、菅野、光久ともに平成十四年十月五日、宗教的権威においては法主≠ノ次ぐ立場である能化に、日顕により叙されている。二人は以降、それぞれ「日龍」「日康」という日号を名乗る。能化に叙され日号を名乗ったこの二人――、結局は日顕の法主詐称の片棒をかつがされただけだった。いまや日蓮正宗においては、日号すらもアメとしての役割を果たす程度のものでしかない。
かつて昭和四十八年から四十九年にかけて、千葉県保田にある大本山妙本寺が離脱する動きを見せたことがある。このとき山崎は、同寺住職の鎌倉寛全について、
「あんな男は能化にして、日号を名乗らせればいいんだ」
と、こともなげに言った。山崎のこの案は細井管長に取り上げられ、鎌倉にアメが与えられた。鎌倉は能化に叙され、「日櫻」という日号を名乗るに至る。
このたびの光久、菅野に対しても同様であった。二人は能化にされたのはよかったが、『法主詐称』という本の発刊により、その意味するところを存分に思い知る。能化に叙されたのは、政治的なものでしかなく、その真意を、九カ月後に思い知ることになったのだ。
悲しいかな二人は、山崎と阿部日顕によって、『法主詐称』という本の対応の矢面に立たされ、よりにもよって、阿部日顕が正統な法主≠ナあることを取りつくろう作業の立役者にさせられたのである。本来ならば、この二人のいずれかが細井管長より法主≠フ座を譲られることになっていた。それなのに両名とも、法主≠詐称する阿部日顕に信伏随従する起請の焼き火箸を、阿部日顕と山崎によって握らされたのである。
ただ沈黙し、隷属し、おのれの保全をはかる両名にとって、選択する道はそれしか思いつかなかっただろう。たとえそれが先師の意思に違背することであってもしかたない、一歩の譲歩も百歩の譲歩も同じ、もはや良心のとがめを感じることすら、二人は放棄してしまっているように見える。
●阿部日顕も右往左往
愚かなのは、この二人に限らない。狡猾に振舞っているかのように見える阿部日顕こそ、最も愚かといえる。これは、少し考えてみれば、わかることである。
もし、阿部日顕が相承を受けているのであれば、自尊心にかけて、第三者の証明など、求める必要はない。第三者に法主の座の相承について云々されることは、自らの地位を落とし、法主の宗教的権威を貶めることである。これは自明の理。
その、誰の目から見ても愚かなことを、阿部日顕はいましている。そのことが相承を受けていないことをみずから証明しているに等しいのに、それすらわからず、まったくの第三者である山崎に相承≠フ正統性の証明を求めている。阿部日顕は、ただ狼狽しているだけなのである。
そもそも阿部日顕は、細井日達管長から昭和五十三年四月十五日に法主としての内付嘱≠ネど受けていない。阿部日顕はウソをついて法主≠フ座に就いたのだ。
昭和五十六年一月、阿部日顕に擯斥処分された正信会が訴訟を起こしたことがある。正信会は阿部日顕が法主の地位にないことを確認するために、「地位不存在確認訴訟」を起こしたのである。
その訴訟において阿部日顕は、昭和五十三年四月十五日に前法主である細井管長より相承を受けたと自分の日記に書いてある≠ニ主張した。だがその日記が、十余年にわたって争われたこの「地位不存在確認訴訟」において、裁判所に証拠として提出されることはなかった。
そしてこのたびは、「相承箱」の所在が憂宗護法同盟により指摘された。阿部日顕はそれを公にできないでいる。つまるところ阿部日顕は、前法主の細井管長より正当に相承を受けたことについての書証、物証ともに公に提示できないのだ。
書証、物証ともに世に出せないその阿部日顕が、このたび用意したのが山崎正友という証人である。この山崎は創価学会に対する恐喝事件において、昭和六十年三月二十六日、懲役三年の実刑判決を東京地裁で言い渡された。その裁判で山崎は、みずから作出した偽証の多くを裁判長に見破られ、
「被告人は、捜査段階から本件事実を否定するのみならず、公判では幾多の虚構の弁解を作出し、虚偽の証拠を提出するなど、まったく反省の態度が見られない。
以上のように考えると、本件は犯情が悪く、被告人の罪責は重大であるといわなければならない」
と判決の際、厳しく弾呵されている。このたび阿部日顕が相承≠フ正統性を求めた人物は、裁判所公認のウソつきなのである。このような偽証常習者である山崎を、こともあろうに法主¢鰹ウの証人に使おうというのだから、おのずから底は割れてくる。
相承≠ゥら二十五年を経て、相承を他人に保証してもらおうなどとは愚かきわまりない。その愚のうえに愚を重ねてなんの痛痒も感じないのだろうか。
かつて阿部日顕本人が山崎に対し、
「あなたは大嘘つきである」
と、法主≠ノなった直後の昭和五十四年九月に面罵したではないか。しかもその山崎は、阿部日顕当人に相承のないことを見透かしてきた人物なのである。日顕がいまさらながら山崎を相承≠フ保証人に使う様を評する言葉は、ただひとこと、「哀れ」である。
これについては第3章において、さらに細密に考証することにする。
●対談相手に選んだのは、こともあろうに原島嵩
この章を終わるにあたってもう一点、指摘しなくてはならないことがある。はっきり言おう。山崎は対談相手を選ぶべきであった。山崎は『慧妙』紙上の対談相手に原島嵩を選んだ。だが原島は、山崎が最も軽蔑してきた男である。
昭和四十八年、原島が私の友人の結婚披露宴に出た。この折、原島は主賓格で出ていながら、グデングデンに酔っ払い、猿が踊るかのような意味不明の踊りを突如、披露したのだった。原島の醜態は親戚一同から大変な顰蹙を買った。原島は我を忘れるほど泥酔した。原島はそれでも酒への執着断ちがたく、宴の終わったあとまで居残り飲みつづけた。それでもおさまらない原島は、その宴席に出された日本酒の一合瓶を持って帰る。その持ち帰り方も浅ましい。背広の外や内のポケット、ズボンのポケット、果ては両手にまで一合瓶を持って帰ったのである。このことを私が山崎に話したら、
「そんな男だよ、あいつは」
とニベもなく答えた。
また原島はこの頃、酔っ払って山崎の家に上がり込み、山崎の女房ににじり寄って物議をかもしたが、このとき山崎は、
「あの色気狂いめ! 人の女房のまわりをうろつきやがって!」
と怒っていた。さらに山崎は、私に次のようなことも話したことがある。
「あんな世間知らずの不細工な人間が、四代会長になれるわけがない。あの容貌を見たら、世間の人は、創価学会はよほど異常な人間の集まりだと思うよ。のぼせやがって! いい気になっているが、いまに引きずりこんでやるからな」
また、
「俺もチビでハゲだが、あいつほどコンプレックスはひどくない」
とも話した。
山崎が法主≠フ相承の正統性を証明する対談の相手として原島を選ばざるを得なかったのは、当然のこと。山崎に同調して動いてくれる者は、おそらくいまも山崎が最も軽蔑しているであろう、この原島ぐらいしかいなくなったのである。
長い間、山崎と連携しマスコミにおいて創価学会批判を続けていたあの内藤国夫も、晩年は山崎にすっかり愛想を尽かしていた。内藤は正信会の伝法寺住職である浜中和道に、山崎に対する素直な心情を吐露した。平成九年二月二十二日、内藤は浜中に対し、電話で次のように話している。
「内藤 俺はね、山友と、金と女の話は一切しないの。
浜中 えー、えー。
内藤 ねっ。一番はじめ、俺に金、借りたいと、あの、造反した直後、言ってきたんだ。
浜中 えー、えー、えー。
内藤 そんとき、きっぱりと、俺はね、『あんたと金と女の話はかかわりたくない』と、『貸さない』と、俺はもう、そのへんはもう非常にはっきりしてんの」 「内藤 俺の名前で金を集めるチラシが全国に飛んだんだよ。
浜中 はい。
内藤 で、俺は怒って、『俺の名前でこんな文書、俺いつ出していいっちゅった』って、叱りつけたんだよ、奴(山崎のこと)を。 〈中略〉
浜中 えー、えー。
内藤 そいで、俺、『お前(山崎のこと)とはもう一生、仕事、一緒にしない』と。『表に出れないてめーの名前でやれ』っちゅうって、俺、大ゲンカしたんだから」
●山崎に負けず劣らずひどい原島の素性
なお、このたびの『慧妙』の対談において、山崎は金銭面でさんざん世話になった正信会の悪口を言っている。利用価値がなくなれば、後ろ足で砂をかけるのは、山崎のいつもの手。しゃぶるだけしゃぶり、そしてポイである。
山崎にとって正信会といえば恩人そのものであるはず。恐喝事件のときには、自分の保釈金一千万円を正信会に立て替えてもらい、娑婆に出てきた。また保釈中は、正信会の全国の末寺の信者よりカンパをもらっていた。さらに昭和五十八年には正信会より、カンパとは別に一度に五百万円をもらっている。
原島も平成十年十一月十日に六十歳で定年退職するまで、正信会の機関紙を作っている継命新聞社より給料をもらっていた。退職するまでの十余年間、正確に言えば在職期間の大半、原島は糖尿病を理由にまともに出社しなかった。週に数度、出社しても午後二時頃というありさま。原島は正信会の者たちの恩情により生活させてもらってきたのだった。
原島は、継命新聞社を退社した直後の同年十二月三十日に日顕宗に入る決意をしたという。動機は原島によれば、「病気の悪化」であったそうだ。
継命新聞社に在職中、病気を理由にまともに出社しなかったことを考えると、金の切れ目が縁の切れ目と原島が考えたようにしか思えない。明けて平成十一年の一月一日、原島は東京・墨田区の妙縁寺で住職の光久より「勧誡」を受け、日顕宗に入る。
原島は、継命新聞社に在籍していた当時の病状を次のように綴っている。それはまるで生き地獄であった。
「一昨年九月十五日、私の母が他界してから、私は急速に元気がなくなり、糖尿病が悪化し、不安神経症、鬱病となり、食事は受けつけず、水さえも吐き、時には血も吐き、一切の現実が恐くなりました。お恥ずかしいことですが、御本尊様も、御書も、唱題の声すら恐くなってしまったのです」
これが日顕宗に戻ったことにより好転したというのである。日顕宗ではこの体験談を同宗機関紙『大白法』の平成十一年七月一日付に掲載した。ところが、原島はその後も、横浜市あたりの病院を転々としながら、長期の入院生活を続けている。原島は、褥瘡(圧迫性の壊疽の一種)を患っている。そのための手術も受けた。
その現状はともかくとして、先に紹介した原島の体験談によると、少なくとも原島は退職までの一年間、継命新聞社にまったく出社していないことになる。それでも正信会は継命新聞社から給与を出し、原島の生活の面倒を見てきたのである。
ところが原島は、定年退職するや踵を反すように、正信会を擯斥処分にした日顕宗に入った。そこで原島は、正信会時代は罰の生活であったということを「告白」するのである。かつて原島が創価学会を裏切ったとき、正信会におもねり、創価学会の教学部長として、
「大聖人の仏法を学会内でふみにじったのはだれあろう、教学部長であった私自身だったのです。私は、ただひたすら自己の保身に汲々としていたのです。いま罰を受けるのも当然といわなければなりません」(『池田大作先生への手紙』)
と「告白」していた。このたびも「告白」。もしそれが本心からの「告白」であるというのなら、原島は根なし草∞夢遊病者≠ノすぎない。
山崎が誘えば、この自尊心も生活力もない原島が対談にのこのこと出てくることは請け合いである。
日蓮正宗における最高の宗教的権威者である法主の地位を、機関紙『慧妙』紙上で保証する山崎、原島は、かくなる人物たちなのである。

