「饒舌の故に」全文紹介 「日蓮大聖人と最蓮房」全文紹介

断簡十六 掌中の玉

●山崎正友の情報操作でふくらんだ細井管長の猜疑心

昭和五十二年一月、菅野憲道が創価学会本部に詫び状を持参した頃より、山崎正友は細井日達管長に対して情報操作を始める。操作された情報を細井管長に伝えたのは、のちに大分県竹田市・伝法寺の住職となる浜中和道であった。浜中は妙信講対策のため、『破邪新聞』を発刊する過程で、山崎との関係ができていた。浜中は少年得度の一期生で、昭和三十五年、小学校五年生の時に、大石寺において得度していた。菅野も少年得度一期である。このことは前記した。

昭和五十二年当時二十八歳の浜中に、山崎の伝えるウソが創価学会と宗門を離間する操作情報であると判別する能力はなかった。まして、同僚の菅野が創価学会に詫び状を取られたと聞いて感情的になっており、山崎の話す内容のほとんどを生真面目に細井管長に伝えた。

山崎が、私が初めて浜中と会った直後、
「浜中は猊下のお耳役だから気をつけろ」

と言っていたことは前述したが、いよいよ当人が「お耳役」として浜中を利用し始めたのである。

この事実を創価学会側はうすうす知っていたが、浜中が平成十二年十月、『回想録』を著したことにより、その詳細が初めて明らかとなった。以下、『回想録』を軸に、山崎がいかに細井管長を掌中の玉≠ノしていったかを明かしていく。なお、この「断簡十六」における引用文は、註記のない場合を除き、すべて浜中和道の『回想録』からである。

創価学会の中に邪義が発生しているかのように記した菅野憲道の論文をめぐって、創価学会と宗門が緊張関係にある時、山崎は浜中に次のように話したという。
「池田さんは、日達上人の弟子を吊し上げて、その責任を猊下にとらせ、そのあとに阿部さんを据えようとしているんです。和道さん、そのことを大至急、猊下の耳に入れて、くれぐれも気をつけるよう言って下さい。明日になれば、今日の会長の講演のゲラが手に入りますから、それも至急、届けて下さい。

ただし、まだ私の名前は出さないほうがいいな。いや、こそっと内緒で言って下さい。『私はいざとなれば、必ずお山につきます。それまでは情報を私が伝えますから、名を出さないように』と」

浜中はその後、その話を大石寺の御仲居・光久諦顕に伝える。御仲居の光久は、細井管長の全幅の信頼を受けていた側近中の側近であった。

山崎はこのように、細井管長の心にある猜疑心をいっそう大きくふくらませるよう工作すると同時に、昭和五十二年一月十五日、関西戸田記念講堂で開催された第九回教学部大会における池田会長の講演「仏教史観を語る」の原稿を、『聖教新聞』に掲載される前に細井管長に渡そうとした。
「仏教史観を語る」には、次のような箇所があった。
「かつての民衆のなかから生まれ、みずみずしく躍動した仏教が、沈滞・形骸化していった大きな要因のなかに、仏教界全体が出家仏教≠ノ陥り、民衆をリードする機能を失ったという事実であります」(昭和五十二年一月十七日付『聖教新聞』)
「現代において創価学会は在家、出家の両方に通ずる役割を果たしているといえましょう」(同)
「その供養が仏法流布に生かされるならば、在家の身であっても供養を受けられるという思想があります」(同)
「すなわち、学会の会館、研修所もまた『近代における寺院』というべきであります」(同)

山崎は、この池田会長の講演を報じた『聖教新聞』のゲラを、浜中を通していち早く細井管長に届け、点数を稼ごうとしたのである。山崎が浜中にそのゲラを渡したのが一月十六日。浜中は新幹線で三島駅まで行き、そこで御仲居の光久自らが運転する車に乗り大石寺へ。大石寺では通常、管長が僧侶に会う時には対面所を使うが、浜中は細井管長が居住している大奥の廊下で細井管長と会った。浜中は細井管長に「仏教史観を語る」のゲラを渡すと同時に、
「『道≠フつく奴は、みんな悪い』と学会が言っています」

と話した。細井管長の直弟子は、管長の道号(出家した時の名前)である「精道」より「道」の一字を、自身の道号につけてもらっていたのである。

細井管長は、内通してきた山崎への謝辞を浜中に伝えた。

浜中がこの細井管長の謝辞を山崎に伝えると、山崎は新たな情報として、創価学会青年部長・野崎勲が、「仏教史観を語る」が講演された関西戸田記念講堂に「伸一会」のメンバーを結集し、
「これは伸一会対妙観会の戦いだ」

と檄を飛ばしたと浜中に伝えた。

しかし、私も伸一会のメンバーとしてこの時の会合に参加していたが、そのようなことはまったくなかった。山崎の離間策に基づくデマである。山崎は浜中を煽り、反創価学会の感情を高ぶらせた出家(以下、反学会活動家僧と称する)が結集するように勧め、そのために東京・新宿の京王プラザホテルの一室を手配した。この時同ホテルに集まったのは、浜中ら六名程度の青年教師であった。


●僧俗を離間させ巨利を得ようと図る山崎

二月に入って山崎は、東京・国立の大宣寺住職で細井管長の娘婿である菅野慈雲を通じ、自らが細井管長と直接会えるように、浜中に取り計らってもらった。山崎は、東京・文京区西片の大石寺出張所において細井管長と会った。この会談は無論、創価学会に対して内密であった。

浜中は同年五月十一日、大分県竹田市の伝法寺住職として赴任した。しかしその後も、山崎より掴まされた操作情報を細井管長に伝え続けた。

伝法寺の落慶法要の前日、早くも山崎から電話が入った。細井管長への伝言依頼である。
「学会は今度は週刊誌を使って日蓮正宗僧侶のスキャンダルを大々的に流すと言っていますよ」

山崎はこのような伝言をその後も何回かおこなうが、「日蓮正宗僧侶のスキャンダル」が報じられることはなかった。当然のことだろう。世間では、創価学会は知っていても、日蓮正宗の存在などほとんど誰も知らないからである。その日蓮正宗の坊主が何をしようと、ニュースとしての価値はない。

浜中は落慶法要終了後、山崎が伝えたスキャンダル暴露の話を細井管長に伝えた。細井管長はこの話が気になったようで、数日後、浜中に電話を入れている。
「そうか、そこまで学会はやるのか。だからワシはみんなにいつも言っているんだ。僧侶は身の回りをきれいにしろと」

細井管長は山崎の術中にまんまとはまり始めた。
「また、何か山崎さんから聞いたら、ワシの耳に入れてくれ」

この細井管長の礼を浜中が山崎に伝えた。

山崎はそれを受けて、
「そう、猊下はそう言っていたの。ともかく徹底してやらなきゃダメだよ。先手必勝ですよ。その作戦は、僕が考えますって猊下に言っておいて」

と応じた。

山崎はもはや軍師気取りであった。

山崎は細井管長を焚きつけると同時に、週刊誌を使って創価学会攻撃を始めた。山崎は僧俗を離間し、その後、調停に入ることにより、巨利を得ようと考えていたのだ。

のち、昭和五十三年、山崎は私に以下のように語ったことがある。
「創価学会が日蓮正宗に寄進する寺院や墓地の建設を、一手に引き受けようと思うんだ。本山はオレに任せるよ。百カ寺を寄進し、それに全国に何カ所か墓園を建設すると、一千億円はくだらないぞ、一割マージンとしてもらっても百億円だ。二億、三億は、はした金だ。土地取得の権限を任せられるだけでもすごいぞ」

しかし、山崎が考えていたのはそれだけではなかったであろう。かつて山崎は、立正佼成会を分断して別教団を作り、その黒幕となって甘い汁を吸おうとしたことがある。その彼の本性からしてみれば、創価学会の一部を切り取るか、あるいは創価学会それ自体を乗っ取ることすら考えていたとしても不思議ではない。山崎の目には、宗教が金儲けの手段にしか見えなくなっていたのだ。

富士宮の土建業者である日原博から得た裏金で、月七百万円もの遊興費を散財していた山崎は、より多くのあぶく銭を手にしようとした。その手段として日蓮正宗を操り、創価学会を圧迫する。和解策として寺院を創価学会に寄進させる。果ては創価学会の乗っ取りすら考えるようになった。自らの欲望を満たすために、あらゆる手段を弄し始めたのだった。恐るべき奸智の持ち主である。しかも、それを何年もかけてやるのだから、常人の想像を超えている。

山崎は細井管長に、創価学会が週刊誌で日蓮正宗僧侶のスキャンダルを暴露するなどとデマを伝えながら、
「先にこっちで週刊誌を使う手もあるな。菅憲≠ニか栗林なんかが、吊し上げをくらったことを週刊誌に暴露しないかな。そうすれば面白いけどな」(筆者註 「菅憲」とは菅野憲道、「栗林」とは栗林開道のこと)

と浜中に話した。浜中はこの発言が理解できなかったようだ。しかし、山崎は思いついたことをかならず実行する。


●週刊誌をフル活用する山崎

七月に入ると、山崎は浜中に電話をかけ、週刊誌が創価学会を取り上げると予告した。浜中が、週刊誌がどのように創価学会を取り上げるのか聞いたところ、山崎は次のように答えた。
「そりゃ、学会が寺を干し上げているとか、坊さんを吊し上げたことなんかをさ、まあ、見ててごらんよ。面白いから」

この山崎の「予告」は当たる。
『週刊新潮』昭和五十二年七月二十八日号が、
「メッカ大石寺が創価学会と喧嘩して参詣者ただ今ゼロ」

と題する記事を報道した。この『週刊新潮』が出た後、山崎は浜中に、
「学会本部は大騒ぎだよ」

と電話を入れている。無論、『週刊新潮』にこのネタを提供したのは、山崎自身であった。

これについて、浜中は『回想録』に次のように書いている。
「やがて山崎氏の話のとおり、創価学会による菅野憲道師らの吊し上げ事件をはじめとする諸問題を『週刊文春』が取り上げ連載を始めた。そのつど、山崎氏はそれこそはしゃぐように私に電話をしてくるのだった。
『まだまだ出るよ』
『佐々木に教えてやってよ』
『御仲居さんや猊下にマスコミは本気です、と伝えて下さい』」

のち、昭和五十三年八月五日、反学会活動家僧の中心的リーダーである佐々木秀明は、東京・調布市の行法寺でおこなわれた反学会活動家僧の集会において、
「昭和五十二年の夏頃、『週刊文春』が接触してきて以来ずっとマスコミに関わってきたことを明かにした」

この、『週刊文春』が佐々木に接触してきた模様については、菅野憲道がより詳しく浜中に話している。
「『妙信講から聞いたんですけど、今、日蓮正宗と創価学会が異常な状態にあるというので取材に来ました』 と言って来たことがあり、それがマスコミとの最初の接触であった」
「妙信講」の名を出したのは、山崎が『週刊文春』を誘い込むための誘い水だったと思われる。昭和五十二年九月、佐賀県唐津にある護法寺、福岡の立正寺の改築記念法要のため、細井管長が九州を訪れた。この時、浜中は福岡市内の西鉄グランドホテルで、山崎からの伝言を細井管長に伝えた。伝言の内容は、『週刊新潮』『週刊文春』の創価学会攻撃は、
「宗門が妙信講と組んでやっている」

と創価学会側が思っているということだった。この離間策にも細井管長は他愛もなく乗っている。浜中の話を聞いた細井管長は、
「なんで学会は、宗門と妙信講と組んで週刊誌に働きかけているなどと思うんだ。誰がそんなことをする。自分たちがそういうことを平気でするから、僧侶のこともそう思うんだろう」

この後、『週刊新潮』『週刊文春』に続き、『週刊サンケイ』も創価学会批判記事を掲載し始める。浜中は述懐している。
「山崎氏は、それら週刊誌が発売されるたびに電話をかけてきては、
『どう、面白い?』
『みんなは、なんて言っている?』

と僧侶の反応を尋ねてきた」


●出家に在家の誠意はまったく通じなかった

この頃、山崎は浜中の紹介で御仲居の光久と会っている。
「会談は、ほとんど一方的に山崎氏がしゃべりまくった。光久師は、それにうなずくより他はなかった。話の内容は、私が山崎氏よりずっと聞かされていたことばかりであったが、光久師にとっては、私を通じて聞くのと、直接、山崎氏の口から語られるのとでは、その迫力といい、生々しさといい、新たに聞く思いであったであろう。山崎氏は、池田会長の宗門攻撃の狙いが、日達上人の退座にあること、宗門乗っ取りにあることを、一挙に光久師に述べたてた」
『週刊文春』昭和五十二年十月十三日号は、
「池田独裁を倒せ! 全国ほう起した学会革命軍」

と題する記事を掲載した。脱会者が九州・大分の寿福寺に三百名、集まったのである。この『週刊文春』を見た細井管長は、住職の佐々木秀明に激励の電話を入れている。

創価学会は事態の収拾を図るため、十一月十七日、池田会長より総監・早瀬日慈に、創価学会内で検討中の「僧俗一致の原則(案)」を見せた。この時、総監・早瀬は、ブラジルより帰国した関快道(のち東京・狛江の仏寿寺住職)を同道し、菅野憲道とともに創価学会本部に挨拶に訪れていた。

ところがその直後、「僧俗一致の原則(案)」が各末寺に出回った。これを見た反学会活動家僧の佐々木秀明、山口法興の両名が、十一月二十八日に細井管長と会う。山口が、
「この『(学会の)宗教法人上の自立性を十分尊重する』というこの一項は、大変な問題だと思うんです。これは是非、粉砕していただきたいと思うんですが」

と意見具申したところ、細井管長は、
「そうだよ。粉砕じゃない。これはもう(学会と)手を切んなきゃだめだと思うんだよ」

と明言した。この細井管長の言葉はカセットテープに録音され、反学会活動家僧の間にダビングされたテープが出回った。

この内容は浜中から山崎にも伝えられた。山崎は忠臣面して、北条浩副会長にその「情報」を入れる。創価学会側は深刻であった。池田会長は僧俗一致のため、信徒としての礼を尽くし細井管長に「御寛恕」を願う。昭和五十二年十二月四日のことだった。
「一、誠心誠意をもってご宗門を厳護していく私達の精神は、今後も不動である。私は愚鈍の身であるが、日達猊下にわがままを申し上げながら、今、末法万年流布のために、ご宗門外護のためにも真剣に基盤を確立するために戦っている。すべては、時代社会が転た迷路に彷徨してゆくであろう現在と未来に、いかなる風波にも微動だにしない僧俗和合の妙法の万里の長城を、さらに深く、広く築いておきたいからである。世間の巷間の一切の批判の矢面に立ちながらも、これだけは完ぺきにしておきたいというのが、私の強い念願であることを知っていただきたい。

一、我々は凡夫であり、愚昧にして未熟な点ばかりである。また大勢であるが故に、勝手気ままと思われる節が多々あろうかと存じますが、唯一、未来に揺るがぬ化儀の広宣流布の基盤を作っておきたいという熱意だけは、どうかくみ取っていただきたい。そのうえからも、本年の末寺の大事なお会式で、参詣者が少ない寺院があったと聞き誠に残念なことだと思っている。

一、末寺のお講についても、私がその繁栄を願って発願したものであり、第七百遠忌をめざして一段と盛んにしてまいりたい所存である。どうか各寺院におかれても、子供である私達が、喜んで参詣できるよう慈しみ守っていただきたいことを、この席を借りてひたすら念願してやまないものである。

一、また彼岸法要等において、学会としても宗教行事として行ってまいりましたが、各寺院の儀式も更ににぎやかに行われていくよう努力しなければならぬと深く思っている。どうか御尊師の方々には、私ども信者の、今までのわがままを、ここに謹んで御寛恕くださるようお願いしたい。最後に、我々はどこまでも、日達上人猊下の御心を体して、胸中には常楽我浄の信心をさらに開き、そして外には、三障四魔の嵐に敢然と向かっていくことを御宝前にお誓いして佳き日のあいさつにかえさせていただきたい」(昭和五十二年十二月五日付『聖教新聞』)

しかし山崎は、池田会長の誠意でもって細井管長の疑念が晴れることのないよう、すでに手を打っていたのだ。この宮崎県日向市・定善寺での池田会長の「御寛恕」願いの二日前、山崎は、御仲居の光久へ以下のように伝えてくれと、浜中に依頼している。
「『池田さんが、〈今度は一旦、頭を下げるけど、その後、ただじゃおかない〉と言って、〈坊主のスキャンダルを全部、暴露する用意をしろ〉と野崎たちに指示をしましたよ。あの人は、台風の間、頭を下げて、それが過ぎたら必ず復讐する人だから、くれぐれもお気を付け下さい』と御仲居さんから猊下に伝えてもらってよ」

この伝言は御仲居の光久を通さず、浜中より細井管長に伝わることになる。場所はサンホテルフェニックス。伝言を聞いた細井管長は次のように語った。
「そうか、山崎弁護士がそう言ったか。ワシも、もしかしたらそうじゃないかと思っていたんだ。だから池田さんにワシは、どうかそういうことをしないでくれという意味で、わざわざ池田さんの前に行って、手を畳について頭を下げたんだ。そうか、やっぱりな」

さらに細井管長は、
「今まで、池田さんと一緒だったんだ。池田さんは隣のホテルに泊まっているよ。明日、一緒の飛行機だったら、ワシは嫌だな」

と感情を丸出しにした。今まで一緒に話していた人物より一つの伝言≠フほうが信用できるのである。これでは誠意をもって話しても無駄としか言いようがない。細井管長は一宗を率いる者としての自信に欠けていたし、七十歳という高齢もあり、諸行事に疲れていたとも思われる。それにしても、あまりに単純な手口に次々と乗せられてしまう人である。昭和五十二年はこのようにして暮れた。


●山崎が書いた「ある信者からの手紙」

昭和五十三年、ある一通の密書により、思い上がった出家たちによる創価学会攻撃が本格化する。一月六日、東京に立ち寄った浜中に、山崎は細井管長への次のような伝言を頼む。
「猊下に『いざとなったら妙信講を復帰させて下さい』と、僕が言っていたと伝えて下さい」

これには、妙信講対策で『破邪新聞』を作っていた浜中が一番驚いたようだ。浜中は、その伝言を拒否するが、山崎は、細井管長の腹を見る高等戦術だと押し切った。浜中は、細井管長に山崎の伝言を伝えた時の状況を次のように詳述している。
「山崎さんが言うには、『訓諭をお出しになったのは、さすが猊下です。しかし、若い僧侶は、そのような猊下の深いお心がわからないようで残念です。しかし、今は、猊下の親衛隊になろうとしておりますので、猊下におかれては大事になされて下さい』とのことです」
「うん、そうだな。秀明なども、ワシのために一生懸命やってくれているからな」
「そして、『しかし、このままでは、決して池田会長は引っ込んでいません。必ず反撃してきます。もし、学会がそうしてきたら、妙信講を復帰されることもお考えになって下さい。浅井は信心はあります』と言ってました」
「そうだな、浅井は信心があるからな」
「いえ、それはどこまでも最終手段です。浅井さんは信心があると言っても、御前さんのことをあれほど悪口を言っていた人ですから」
「浅井も国立戒壇≠ウえ言わなかったら、いいんだがな。ワシの悪口を言ったところで、それはワシはなんとも思っていないぞ」

細井管長は創価学会に対抗するため、反学会活動家僧を大石寺に集め、自分を突き上げる芝居を打てと佐々木に依頼する。佐々木は当時浜中に、次のように語っている。
「最低でも百人ぐらいは行くだろう。御前さんも『一人でも多く集めろ』と言っていたから、『猊下、御安心下さい。最低、百人ぐらいは来ます』と言ったら、喜んでおられたよ」

反学会活動家僧らには、このように細井管長からの「御内意」が伝えられていたのだ。その一方で、宗務院の総監・早瀬、教学部長・阿部信雄(日顕)が、この大石寺でおこなわれる集会に参加することを止めるための説得を続けていた。

阿部は、細井管長に、
「今、学会と喧嘩したら、宗門の三分の二ぐらいの僧侶は、学会に行っちゃいます」

と言ったようだ。それを心配した細井管長は、反学会活動家僧の佐々木に、
「本当にそうなのか」

と聞いたところ、佐々木が、
「そんなことありません。猊下が本当に学会と手を切ると決意なされたら、何百人も猊下のもとに集めます」

と請け合ったという。そこで、一月十九日に反学会活動家僧が集まることになった。

この一月十九日の反学会活動家僧らの集まりを前にして、山崎は細井管長に密書(怪文書)を送る。その怪文書は図らずも、集まった者たちの反創価学会意識をいっそう高揚・暴発させることとなった。のち、この怪文書は「ある信者からの手紙」と呼ばれる。浜中にこの怪文書が渡されたのは前日の十八日。同日、浜中は大石寺塔中の妙泉坊に着き、同坊住職・光久の妻がこの怪文書を清書する。

浜中が細井管長にこの怪文書を渡したのは、反学会活動家僧たちが開いた集会の直前であった。集会には約百五十名の教師が集まっていた。それらの教師は口々に創価学会の指導が日蓮正宗の教義に違背していることを述べた。その話を受け、細井管長が山口法興に山崎の書いた怪文書を読み上げさせる。

怪文書は次のように始まった。
「正宗と創価学会の間で、これまで種々な経緯があったが枝葉末梢の現象にとらわれたり、意図的な外交辞令や演技、カムフラージュに迷わされたり 或は 自分に都合のよい希望的観測に安住し 気休めをむさぼっていたら必ず本質を見誤り、対応を誤って学会側ペースにはめられてしまうであろう。

戦後の歴史を通じて 一貫している事は 学会は本山と信者及び本山と社会を切りはなして 互いに情報操作して常に主導権をにぎる事に全力を投入してきたと云える。そこにのみ存在価値があったとすら云える。

即ち信者及び社会には 日蓮大聖人以来の正統を受けつぐ日蓮正宗から広布 全面的委託を受けたと云う宗教的権威をもってのぞみ 全面的委託なるが故に信者及び社会が正宗と直接に交渉を持つことを拒否して常に学会が窓口となる事を強要して来た」(「ある信者からの手紙」より一部抜粋)

これは増長した僧らにとっては聞こえのいい話であったかもしれないが、まったく史実を無視した話である。宗門は創価学会のおかげで、困窮の道より救い出された。その後、創価学会は破竹の勢いで教勢を拡大するわけだが、宗門はその儀式面を担うことすら、手が回らないありさまであった。実際、「御授戒」の時、日蓮正宗に入信する者一人一人の頭に御本尊をかざすことすら大変で、手を抜き、一括で全員の頭に御本尊をかざして「御授戒」を終える者すら現れた。そのため宗門は、一人一人に御本尊をかざすように徹底しなければならないのが実情であった。創価学会が社会と宗門の間を分断するどころか、化儀面で創価学会の活動を支えることですら、完全に手に余っていたのである。


●全国の末寺にコピーが出回る

山口法興の読み上げる「ある信者からの手紙」は、さらに不信の火を焚きつける。
「一方 本山に対しては 強圧と懐柔 そして外護≠ニ云う大義名分、即ち荒れ狂う社会の隔離と云う名目で信者や 社会との直接の交流を極力封じて来た。

こうして、社会には新興宗教に非ざる仏教の正統と名乗って 猊下の信任を旗印に信者に絶対的な権力を確立し、内には布教と信者の教化育成を支配することを左右する力を持った」(同)

これを聞いた僧たちは、その反学会意識をさらに猛々しくするのだが、大石寺には自らが取得する土地の処理、あるいは会計の処理すらまともにできない愚かしさがあった。そもそもこの時点で、僧侶の総数は千名に及んでいなかった。このような陣容で一千万もの信者を獲得する布教力など持ち合わせていない。

この時集まった者たちを主体に、翌昭和五十四年七月、「正信会」が形成される。これらの者たちのほとんどはのちに擯斥処分されるに至った。だが、どう言いつくろおうとも、正信会の信者は創価学会から脱会した者をかき集めたにすぎず、新入信者の獲得はおろか、次代への信仰の継承すらまともにできていない。この現実の姿からして、力量のない若僧らが驕慢に溺れ、池田会長への瞋恚の思いを燃やしたにすぎないといえる。

山崎は煽る。
「宗門に対しては、学会は何ら干渉されない自由 方々(ママ)を確保するとともに 宗門を学会の思うように押し込めるため 硬軟取り交ぜてありとあらゆる方策を用いる」(同)
「学会はチャンスとみれば かさにかゝって宗門を弾圧して風向きが悪いとみれば手の裏をかえしたように頭を下げる そのくり返しの中で次第に目的を達しているのである。学会側のスケジュールでは、あと三年で経済力もとゝのい、会員も学会独自路線につかせてしまうことが出来墓地や会館等の施設によって固定化出来ると云っており 猊下の在位もその頃までとみて それから チャンスと云っている」(同)

山崎はこのようなことを述べたのち、末寺で檀徒作りを進めることが第一であると強調している。

山崎は密書のつもりだったが、細井管長がこの「ある信者からの手紙」を山口に読ませたことにより、反学会活動家僧たちを煽ることになった。歴史の変化とは奇妙なもの。当事者の予想を超えたところで加速することがあるのだ。

山崎の妖言を連ねたこの「ある信者からの手紙」が、約百五十名の教師の前で読まれたことを浜中から聞いた山崎はうろたえた。
「え、そりゃマズイよ! あれは表に出さないでくれって、あんたに念を押したろう」
「今はマズイんだよ。学会にバレるのは早や過ぎるよ。猊下も困るな」

この時のやり取りを、浜中は次のように記している。
「山崎氏は慌てふためいていた。
『まいったな、それは』

と、ぶつぶつ言っていた。そして、
『ところで、あの手紙はどうしたの?』

と、私に尋ねた。

私が山崎氏の手紙の原本を渡すと、幾分かホッとしたようであった。
『これを清書して、猊下に渡したものは? 山口さんが読んだものは、どうしたの?』

と、つづいて山崎氏は尋ねた。
『あれは、そのまま御前さんが受け取られて持っていかれたんじゃないかな』

と、私は答えた。光久師の奥さんが清書した山崎氏からの手紙の行方など、私はすっかり忘れていたのであった。

山崎氏はイライラしたように、
『そんな無責任なことを言われても、僕は困るんだよ。至急、調べて下さいよ。そして御仲居さんに、絶対にあれを表に出さないように猊下に頼んでくれるように言って下さい』

と、私に命じた」

しかし、山崎のこの「ある信者からの手紙」(光久の妻が清書したもの)は、コピーされて全国の末寺に出回った。


●池田会長自らが細井管長と直談判

二月九日、大石寺大化城において「時事懇談会」が開かれた。この「時事懇談会」には、先に創価学会が提示した「僧俗一致の原則(案)」を元にした宗務院案が、事態の沈静化をめざして提示された。宗務院案では、檀徒作りをできるだけ避けるように配慮がなされていた。ところがこの宗務院案に対して、開会早々、細井管長が挨拶の中で水をさす。
「こういう状態になって来て、我々もこれから先如何なる困難があろうとも、宗門として宗門を大聖人様の仏法を守る宗門として例え小さくなろうとも、どうあろうとも是れは真直に切り抜いて行かなきゃならんという考えも、もっております。それが本音です。建前は仲良くして行こう、本音と建前が違うと近頃言いますけれども、この通りであります」(『時事懇談会記録』より)

この「時事懇談会」は紛糾する。宗務院の総監・早瀬、教学部長・阿部が反学会活動家僧らから吊るし上げられ、嘲笑の対象にされた。この会場の雰囲気に押され、総監・早瀬はこの「時事懇談会」の主旨を要約し、
「第一に先程提出致しました宗務当局の案は撤回致します」(同)

と述べ、
「今後学会とやって行くにはどうしたら良いか」(同)
「学会と別れてやっていくか」(同)

という二つの内容のアンケートを宗内で取るとした。アンケートの期限は二月末日。
「一代坊主」の細井管長の勢力は、昭和三十五年に年分得度を始めて以来、着実に肥大化し、「代々坊主」の早瀬、阿部らの勢力に拮抗するまでになっていた。その上さらに、「代々坊主」の中で、長年、反創価学会の爪を隠してきた者たちがその存在を顕在化させつつあった。アンケートの結果が、「創価学会と手を切る」という、細井管長の「御内意」に沿ったものになることは目に見えていた。

二月十二日、池田会長は事態打開のために大石寺に行き、細井管長と直接話した。残された道は、細井管長に会長自らが直談判するしかなかったのだ。

二月十三日、池田会長は熱海の東海研修道場に山崎を呼び、
「生活を正し、ちゃんと家に帰って、しっかり勤行せよ」(記録文書より)
「側近づらをするな。(浜中)和道のようなチンピラとつきあうな。宗門問題から手を引け」(同)

と厳しく指導した。

二月十四日、池田会長は再び大石寺に出向き、細井管長と話を詰めた。その結果、二月九日に決まったアンケートについては、
「いかにしたら仲良くやれるか」(『時事懇談会記録』より)

という内容に修正された。

反学会活動家僧たちは、
「御前さんが、何十億かの御供養を学会からもらうことになったので、アンケートを修正された」

と、今度は 掌をかえしたように、細井管長の悪口を言い始めた。信者たる創価学会員に対しては、「血脈付法の御法主上人」という宗教的権威をもって圧しながら、自分たち弟子はいささかの尊崇の念も持たず、自分の師匠を金に転びやすい人格の持ち主であると思っていたのである。

宗務院は二月十六日、気の変わりやすい細井管長の対応を見越してのことか、
「どうすれば創価学会と仲良くやっていけるか」

という項目だけにしぼったアンケートを急ぎ宗内に配布した。


●出家の本質を見抜いていた山崎

二月十八日、反学会活動家僧が大石寺に集まり、細井管長に「目通り」した。その「目通り」の前、彼らは大石寺塔中蓮東坊に集まり、集会を開いた。
「御前さんは創価学会の金に転んだ」

という話が、あちらこちらでひそひそとささやかれた。
「御前さんは、もともと学会と手を切るつもりはなかったんだ。ただ、池田会長を押さえつけたかっただけなんだ。そのために、俺たちを二階に上げて梯子を外した。もう俺は、ウチの檀徒にも、学会にも、御前さんが学会と手を切るとおっしゃったと、話してしまった」
「猊下をリコールしよう」
「猊下不信だ。我々は猊下個人を守るのではなく、猊座を守る」

とまで言い始めていた。

彼ら反学会活動家僧にとって都合のよい「己中の猊座の尊厳」が、早くも誕生し始めた。御本仏である日蓮大聖人の尊厳はあっても、葬式仏教と出家社会の奢りを都合よく象徴する「猊座の尊厳」などというものは、もとよりない。

ともあれ、蓮東坊で意思統一した者たち約百四十名が、細井管長に「目通り」した。細井管長は次のように話した。
「なんとしても、手を切るのはやめてくれ。一千万信徒の成仏が、かかっている。どうか許してくれと、向こうの大将が言ってきたんだ。二回も来たんだ」
「それなのに、坊さんとして、それでも手を切るなどとは言えない。だから今度だけは、様子を見ると言ったんだ」

このように細井管長が話しても、反創価学会の感情にとりつかれた者たちの疑いを氷解させるには至らなかった。細井管長は、二月二十二日に宗門の全教師を集めて説明をすると言った。

この「目通り」の様子はカセットテープに録音されており、山崎は浜中からその録音テープを受け取って聴いた。
「ハッ、ハッ、ハッ、猊下もタジタジだね、これは」
「僕の出番は、まだまだあとだよ」

山崎は、宗門内で顕在化した反創価学会のうねりが出家の本質に根ざしたものであり、それが消えることはないと見抜いていたのだった。

二十二日、第二回目の時事懇談会が、前回と同じく大化城でおこなわれた。そこで細井管長は次のように話した。
「池田会長が二回も来て、詫びてきたならば、許すのが僧侶の慈悲である」
「しかし、それも今度だけである。その条件として、宗門の全教師から、学会に対する注文をアンケートに集計して突きつける。もし、向こうが、それを飲まなかったら、それはそれで切る、切らなくてはならない。そのアンケートは、最初は、学会と手を切るという一項目が入っていたが、学会の方からそのような手を切る≠ネどというアンケートが出ただけでも、大変な混乱になってしまう。どうか止めてくれと頼んできたので、その項目を除外したのだ」

だが、出席者たちは細井管長の説明に納得しなかった。細井管長は、
「お寺に来たいという人は、来いと言えばいい。お寺に来て信心したい人は、お寺の檀徒にして、どんどん扱っていけばよい。だから檀徒名簿を作りなさいって、言っているんだ」

と述べた。細井管長は山崎が書いた「ある信者からの手紙」の示す作戦に沿い、檀徒作りを緩めようとはしていなかったのだ。

この第二回時事懇談会の内容を聞いた山崎は、
「猊下も結構、僕の意見を取り入れてくれたみたいで油断はしていないね。さすが親分だよ」

と述べた。


●山崎が次々と流すデマ情報に翻弄される細井管長

三月十四日、大石寺大講堂に全国の教師五百名が集まった。細井管長は、
「破門せずに学会と協調する方向で協議を進めてもらいたい」

と基本路線を示した。宗務院がアンケート結果に基づいて作成した「協調案」が示された。

このままでは創価学会と宗門との間が和合すると見た山崎は、暗躍を始める。山崎は大石寺に行き細井管長に会った。この頃すでに、山崎は細井管長の信頼を受け、ほぼフリーパスで会えるようになっていたのである。この時の「目通り」の模様を、山崎は次のように浜中に話した。
「池田さんのお詫びは、あれはポーズだということだよ。腹の中で池田さんは、今に見ていろ≠ニ思っているよ。だから、手をゆるめちゃダメなのだよ。そのためにも、学会の教義のおかしい所を全部チェックして、それを使って檀徒を増やさなくちゃならない。いざとなれば、マスコミだって、宗門の味方をするよ。『そういうマスコミを僕がキチッと押さえています』と言ったら、猊下も安心していたよ。もう、猊下の腹は決まっているね。いざとなったら手を切るって」
「ともかく、猊下に『どこまでも、学会に甘い顔をせずにいて下さい』と言っておいたよ。猊下は、僕の『言うとおりにする』って言っていたよ。『宗務院が作った九項目の学会への協調案も出さない』って言っていたよ。これから、もっと面白くなるよ」

三月三十一日、恒例の妙観会の集いが大石寺でおこなわれた。この前日、山崎は浜中に、細井管長への進言書「今後の作戦」を託した。この時、山崎は伝言を浜中に託した。

浜中はこの時の模様を次のように記している。
「『その手紙とは別に、山崎さんからの伝言があります』

と言って、私は山崎氏の言葉を思い出しながら、日達上人に話し始めた。
『さすが、御法主上人です。池田会長を恐れずに、ハッキリと手を切るとまでおっしゃりました』

と、私が話すと、突然、日達上人は、
『バカ言え、ワシだって、本当は恐いんだ』

と、大声を出され、机の上に両手を広げられた。その手がかすかに震えていた。

その時、私は日達上人がいかに悲愴な決意で、一月、二月を過ごされたか、やっとわかった思いであった。私が黙っていると、日達上人は私が目の前にいることを今、気づかれたかのように手を元どおりの位置に戻すと、
『それで』

と、先を促された。

私が、
『池田会長は、御前さんのことを後白河法皇と言っています』

と言うと、日達上人は苦笑いをしながら、
『あの連中は、ワシのことをなんとでも言うだろう。言いたい奴はなんとでも言えばいい』

と、言われ、
『ワシの写真をケシカランと言って踏みつけるような連中だからな』

と、言われた。

妙観会全員でのお目通りの時、私は後ろのほうに座っていたため、よく聞き取れなかったが、どこかの住職が日達上人に、
『猊下の写真を踏みつけるように、学会の幹部が指導しています』

というようなことを報告しているのを思い出した。私が山崎氏の伝言を全部、伝え終えて辞する時、日達上人は、
『よろしく言ってくれ』

と、山崎氏への言葉を私に残された」

池田会長が細井管長のことを「後白河法皇」と言ったことなどない。もちろん、創価学会幹部が細井管長の写真を踏みつけるように指示したこともない。だが、細井管長におもねるため、このようなありもしない「極秘情報」が、末寺住職たちから細井管長に報告されていたことがわかる。

しかし、細井管長は、このような情報がいったん頭の中に刷り込まれると、それを覆すことはまずなかった。


●細井管長を入院させて洗脳

この頃、『週刊新潮』『週刊文春』が、さかんに創価学会批判の記事を連載している。これらの週刊誌の報道について山崎は、浜中に、
「今度の新潮の記事、読んだ? どう、うまく書けてる。これは誰が仕組んだと思う?」
「誰がこんな仕掛けができると思うの。全部、僕がやらせているんだよ。猊下にも、こそっとそのことを言っておいてよ。これから、まだまだ学会のことを新潮も文春も、徹底して叩きますよってね」

山崎の週刊誌操作は、当時、山崎のそばにいた人物も証言している。山崎は「フジイ」という偽名を使い、創価学会についての操作情報を流した。山崎は受話器にハンカチをあて、声色を変えて『週刊新潮』編集部にたれ込んでいた。

山崎は細井管長に対し、マスコミに大きなルートがあるように装っていたが、舞台裏はこのような犯罪者まがいの情報操作を一人でおこなっていたのだ。

この頃、細井管長の心臓の調子が悪くなった。浜中がそのことを山崎に洩らすと、山崎は嬉々として、笹川良一(当時、日本船舶振興会会長)が経営している病院(笹川クリニック)の院長を紹介すると言った。その院長とは、東京・築地にある聖路加病院の日野原重明(現・聖路加国際病院理事長)であった。この頃、山崎は笹川の三男・陽平と親交があった。

笹川の紹介がきいて、日野原は細井管長の主治医となることを了承する。その結果、細井管長は五月十八日から二十四日まで、聖路加病院に検査入院する。この検査入院中の二十三日、細井管長は笹川記念館のライフ・プランニング・センター(前出、笹川クリニック)を訪れている。その後、細井管長は一カ月に一回、同センターに通うようになり、そのつど山崎が同伴する。

この頃山崎は、笹川クリニックの細井管長のカルテを見せ、
「玉≠掌中にした」

と周りの者に自慢している。山崎はこの時のことを昭和五十四年の池田会長勇退ののち、ある人物に自慢げに話している。
「俺が最初にどうやったか。まず、猊下をほかの情報から遮断した。そのあいだは俺と御仲居にしか会わなかった。そうしておいて、いろいろなことを吹き込むんだ」

山崎にとって細井管長を入院させる真実の目的は、とことん自分の欲得に利用するために洗脳することにあったのだ。