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おわりに
 平成二十年三月七日、最高裁において上告が棄却され、妙観講並びに大草一男の創価学会、(株)報恩社などに対する不当訴訟に断が下った。一連の電話盗聴事件についての報道は名誉毀損に当たらないとの判断である。電話盗聴の犯人が真実の報道に難クセをつけ、あまつさえ司法の場においてその報道をなした者たちに冤罪を着せようとした謀略裁判が破綻したのである。電話盗聴をしたうえで、それを隠蔽するために濫訴を行なうという、常人では思いもつかない悪事を平然となす。そこには、既成仏教の皮をかぶった反社会的カルトとしての本質が露となっている。
 最高裁判決が下ったのち、(株)報恩社のウェブサイトに「日蓮正宗妙観講連続電話盗聴事件に関わる裁判記録 暴かれた不当訴訟の真相」として本件裁判の重要な裁判資料を公開した。これに対する反響は実に大きかった。インターネットの検索エンジンで「妙観講」と検索すれば、その上位に当該裁判資料の一覧が表示された。
 さらに私に直接、裁判資料だけではわかりづらいので、もっとわかりやすく本を書いてもらいたいとの要望があった。本件電話盗聴事件の情報入手、報道、そして訴訟に当事者として関わっている私が、一連の電話盗聴事件について書くことは自他ともに認める適役ということになるのだろう。この卑劣な電話盗聴犯罪及び不当訴訟の真実を赤裸々に綴り、後世にその事実を伝えるのは私の責務であると考えた。
 また私は、平成十七年六月二十九日、東京地裁六二六号法廷において『「地涌」選集』を発行した(株)報恩社の代表取締役として、また一連の電話盗聴に関する情報を『地涌』編集部並びに『第三文明』編集部に提供した者として証言台に立った。
 この時の証言の中で、私は一連の電話盗聴について必ず本として世に著すことを明言した。
 今回、本書を上梓することによって、私はやっと証言を完結させることができたという感情を持つに至った。
 最高裁判決まで出ていた先行二訴訟を覆すという難事にあたり、(株)報恩社の編集部はその総力を挙げて戦った。その努力の結実が、大草に対する弾劾証拠や私が裁判所に提出した数々の「陳述書」である。とはいえ、本書に紹介したような私の「陳述書」はあまりに長文であるがゆえに、普通の弁護士であるならば書かせてもらえなかったであろうと思っている。本件訴訟における私の訴訟代理人をしてくれたのは、大阪芙蓉法律事務所の弁護士の方々であった。この大阪芙蓉法律事務所の所長である今井浩三弁護士は、私の昭和四十年代後半以来の友人である。私が自由に「陳述書」を書けたのは、今井所長が「北林の裁判や、北林の自由にさせてやったらいいやんけ」とひと言、言ってくれたおかげであった。
 その今井弁護士の指揮下にあって、大阪芙蓉法律事務所の弁護士の方々が時には昼夜兼行してこの不当訴訟にあたっていただいたことは感謝に堪えない。ここにその弁護士の方々の氏名を列挙し、御礼の一分とさせていただく。
今井浩三弁護士、稲毛一郎弁護士、松村廣治弁護士、幸田勝利弁護士、平井龍八弁護士、清王達之弁護士、井上直治弁護士、國重徹弁護士
 妙観講不当訴訟に並行して、私は三つの訴訟を行なっていた。
 和解条項に関わるので社名を公表することはできないが、ある出版社には東京高裁で私に対する名誉毀損を認めさせ謝罪させた。この訴訟では、山ア正友が出版社側証人として出廷したが、反対尋問でその虚偽を破綻せしめた。いま妙観講などと連携し反創価学会運動の活動家となっている元創価学会本部職員の古谷博は、この訴訟で事実に反する内容を記し私を攻撃する「陳述書」を出版社側から裁判所に提出し、証人採用された。ところが古谷は出廷当日、裁判所に何らの連絡もせず無断欠席した。この名誉毀損の発端は、古谷の出版社への情報提供にあったのに、いざ出廷となったら逃げた。訴訟は卑怯者をもあぶり出す。
 また山ア正友が著した『「月刊ペン」事件 埋もれていた真実』(平成十三年 第三書館刊)という本も私に対する名誉毀損を行なっていたので提訴し、平成十八年十二月十二日に最高裁において勝訴が確定した。
 また、山アが平成十七年に(株)日新報道から出版した『再び、盗聴教団の解明』の文中にも、私に対する名誉毀損を行なっている部分があったので、平成十七年四月に提訴した。(株)日新報道は昭和四十四年に藤原弘達の悪書『創価学会を斬る』を出版し言論出版問題≠ノ際しての当事者であった会社である。
 この訴訟は平成二十年四月に東京地裁で勝訴して、同年十二月二十五日に東京高裁でも勝訴した。
 これらの裁判もまた、大阪芙蓉法律事務所の弁護士の方々が中核となり、私の訴訟代理人となって活躍してくれた。
 平成二十年十二月二十九日には山アが死去した。山アが創価学会を恐喝した昭和五十五年以来、二十八年間に及ぶ山アに対する私の戦いは、ここにおいて一応、終結した。しかし、山アの悪逆非道ぶりについての真実の姿のすべてはいまだ社会的に知られるに到っていない。山アの虚言は死した後も流言飛語となり、社会の暗部で発酵し続け、時折、腐臭をともなったアブクを発することだろう。それに対しては、間断のない言論の戦いが必要だと考える。
 山アの葬儀は年を越して平成二十一年一月六日に東京都杉並区に所在する妙観講本部において行なわれた。山アと妙観講との関係の深さが、よくわかる事実である。山アもまた妙観講同様理境坊に所属していた。葬儀の導師は同坊住職の小川只道だった。
 私は妙観講不当訴訟が起きた時から、改めて『妙法蓮華経並開結』を何度も読み、日蓮大聖人の編年体御書全編を二度読み直した。加えて『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』も読了した。
 平成十六年十二月に、全三巻約一五〇〇頁にわたる『日蓮大聖人と最蓮房 師弟不二の契約』を著した。この本は平成十七年十一月に改訂第一版、同十八年十二月に改訂第二版と重版することができた。
 同書は、最蓮房は日興上人の佐渡期における異名である、という説が骨子となっている。
 平成十七年二月十一日の方面長会議における池田名誉会長のスピーチに次のようにある。
「日蓮大聖人が佐渡に流された際、多くの御抄を与えられた弟子に最蓮房がいる。
 最蓮房が大聖人からいただいた御抄には『生死一大事血脈抄』『草木成仏口決』『諸法実相抄』『当体義抄』などがある。
 この最蓮房とは、どういう人物であるのか。七百年の間、大きな謎の一つであった。多くの場合、『京都から来た天台の学僧』とされている。
 また最近は、最蓮房は日興上人である、との研究もある。
 幕府の厳しい監視、迫害・弾圧の下にあって、いわば敵の目をかいくぐるために、最愛の弟子である日興上人を、あえて、このように名づけて連絡をとられたのではないか、というのである。
(中略)
『師弟の契約』。どうして最蓮房が、仏法上、これほどまでに重大な契約を結んでいただけたのであろうか。
 師匠である大聖人への『随順』。そして、師と同じ『難に遭う』こと。
 この二つの要件があってこそ、大聖人は最蓮房と『師弟の契約』を結ばれたのである」
『日蓮大聖人と最蓮房 師弟不二の契約』は、四件にわたる訴訟の渦中であったればこそ書くことができたと思っている。今、振り返ってみて、これらの緊張の極限にあった時期 最後に、平成十四年から平成二十年までの長期にわたるこの妙観講不当訴訟に対する戦い、その他の訴訟への対応、そして私の執筆活動を支えてくれた、我が(株)報恩社の社員一同に感謝したい。
北林芳典
 二〇〇九年春節

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