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まえがき
 狂気の時代の只中にある時、人々は呻吟するのみで、その時代よりの脱出方法を見出せない。時代を狂気ならしめたのは、人である。最初はほとんど狂気とすら認識されない、一人の人間に宿った異常な心が、鬱屈した人々の心を共振させ、時代を狂奔させる。
 狂気の時代は、人々に耐えがたい犠牲と忍従を強いる。人々は時代に翻弄される。その時代は暗くて長い。
 狂気の時代にあって、その核を構成するのは、差別感である。狂気の時代を現出させる者らは、抜き難い差別感を持っている。彼らは人より強い差別感を、己の心に広く深く根ざした劣等感の中で醸成した。彼らが満足、愉悦を感じることのできるのは、ただ人を差別し虐げ操り、その優越感に浸る時だけである。
 これらの魔物たちの跳梁を許してしまうのは、時代の大多数を占める人々の無知と無関心、そして事なかれ主義である。えてしてこれらは「常識」とされる。この「常識」は沈黙を装うこともあれば、饒舌をもって狂気の手助けをすることもある。
 狂気の時代に終焉をもたらすのもまた人にほかならない。平等感を思想化し、行動化できる者が、人権、正義、自由、博愛などに基づく運動の連鎖、連帯を創る。この運動の軸となるのは、先駆者であり、指導者である。軸なき運動体は流砂のごときものである。
 よって先駆者、指導者らは、差別の温床で欲得を満たしている者、差別の頂点に立ち民衆を睥睨する者たちの標的となる。始末の悪いのは、その差別の中で、わずかばかりの余禄にあずかろうとするさもしい者たちが、差別の頂点に立つ者にぬかずき、追従して、時代の針を逆に回そうとすることだ。彼らはぬかずくことにより身の保全を図り、上下の差別を演出してみせ、人間社会に差別の幻想を作る。差別構造の頂点に立つ凡庸なる者は、愚かなる者の相乗作用により、雲の上に霞んで見える。
 創価学会は狂気の時代を耐え抜き、勝利し、民衆凱歌の時代を迎え得た。卓抜した指導者・池田大作名誉会長の存在あればこそである。創価学会は純真な信徒団体として僧俗一致を築こうと至誠の努力をなした。ところがそれに対し、慈悲をもって応えるべき出家集団が、その信仰心を逆手に取り、支配欲を露にした。衣の権威は民衆の信仰に対する情熱を逼塞させ、隷属を強いる。このような狂気の時代がおよそ三十年続いたのである。出家の権威が真綿で首を締めるように創価学会にまとわりついた時もあれば、暴虐の刃が容赦なく創価学会に向けられた時代もあった。
 これらの迫りくる艱難にすべて打ち勝ったとき、創価学会は無量の宝珠を手にしていた。それは確かに、仏意仏勅の創価学会にもとより備わっていたものかもしれない。しかし、能忍の人・池田名誉会長なくしては、その宝珠を逸したであろうことは間違いない。
 本書は「山崎正友と宗門問題」をテーマに書いたものである。信仰心を失った山崎正友と管長を頂点とする宗門――それが何ゆえに共振・共鳴したのか。
私は山崎のもとで、昭和四十七年から足かけ七年を過ごした。また日蓮正宗の信徒として、同宗管長・阿部日顕が創価学会を破門するまでのおよそ三十年間を過ごした。「山崎正友と宗門問題」は、私にとって決して回避してはならないテーマであったと言える。
 私はこれまで、山崎正友の社会的な不正についてさまざまな形で世の中に伝えてきた。しかしその後においても、最高最善の教法である日蓮大聖人の仏法の末流に位置する宗団、そしてその頂点に立つ管長と、無信心の山崎正友がどのようにして結びつき、仏意仏勅の創価学会を破壊しようとしてきたかについて世に伝えなければならないとの思いが私には絶えずあった。私にはその本質がはっきり見えていた。一宗の管長と山崎正友を結びつけたものは、彼らに共通する抜き難い劣等感、その裏返しとしての差別意識に基づく支配欲なのである。ゆえに狂気の時代が現出した。この時代の真相を世に出さなければ後代の人が判断を間違うと、私は長年思ってきた。
 本書でその真相を伝えるにあたり、私は「その時代を生きてきた者としての回想」「ルポルタージュ」など、あらゆる手法を採用した。そのため、章ごとに文体が不揃いに感じる読者も多いのではあるまいか。したがって私はあえて「章」とせず、「断簡」と名づけた。それらの「断簡」を貫く真実を、読者の方々に見出してもらいたい。

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